山下晴代の「積ん読亭日常」

まっとうな本を読んでいく。

【詩】「ジュリアン・グラックを読めなくて」

ジュリアン・グラックを読めなくて」

なんとなく、ジュリアン・グラックの『シルトの岸辺』を読もうとした。細かい活字の「全集」の、「Le Rivage des Syrtes』の箇所にpost itが入っていて、章題、Une Prise de commandement。そして、J'appartiens a l'une des plus vieilles d'Orsenna.で始まる。私はオルセナの最も古い一族のひとつに属している。架空の物語の始まりである。オルセナという国は、架空のものである。しばしば、このように始まる物語があるが、まったく時間の無駄である。なぜなら、その架空の国を創造する際の記述が空回りであるからだ。たとえばプルーストのように現実の記述であるなら、それはどこまでも思考を膨らませていくことができる。しかし、架空のハナシは、周到に、一々をねつ造しなければならず、思考はその作業のために滞りがちになる。文章が硬くなり、読んでいて楽しくない。ゆえに誰も、偉大な文筆家は、グラックについて書こうなどとしない。ベケットしかり、ドゥルーズしかり、クリスヴァしかり。みんな、プルーストについて書いているではないか。集英社世界文学全集の、『シルトの岸辺』の訳者は、詩人でもある、安東元雄氏である。この人が誰か知らない頃、私は現代詩手帖に投稿していて、19歳頃だったと思う。私が詩のなかで、「木枯らし紋次郎」と書いたところ、「志が低い」と安藤氏が発言したことをなぜかいつまでも覚えている。当の安藤氏にとってはなんら記憶に残らないことなのだろうが。しかしてフランス語のテキストを味わって読めるようになると、よけいに、なんで木枯らし紋次郎が「志が低い」のかわからない。おフランス語のグラックなら志が高いのか。それでますます、こうした架空の物語を一から組み立てる作家にも嫌悪を感じるしだいだ。どーでもいい。プルーストが恋しい。自由に空想を膨らめ、書きつけていった。話者は作者であってもなくても関係ない。要は、その時代に生きる筆者が生活し、思考することだ。思わせぶりな架空の国などを組み立てた言葉など読みたくない。というわけで、私は、その、極度に活字の小さな、Julien Gracq Oeuvres Completes を閉じるのだった。

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