山下晴代の「積ん読亭日常」

まっとうな本を読んでいく。

【昔のレビューをもう一度】『ドイツ零年』(ロベルト・ロッセリーニ監督)(DVD)

『ドイツ零年』(ロベルト・ロッセリーニ監督)(DVD)

 1947年、廃虚のベルリン。墓掘りの仕事をしている少年は、いくつだ?と聞かれ、15歳と答えたが、どう見てもそうは見えない。実際は12歳で、「仕事泥棒」と言われそこを追い出される。逃げる途中で、道路に馬が死んで倒れているところに人だかりがしているのを見かけ、近寄るが、大人たちに追い払われる。群衆の一人は馬の首あたりにナイフを入れ肉を切り取ろうとする。少年が「家」(崩れたビルの一角)に帰ると、大家が各家庭の電気使用量を見て、少年の家に「超過している」と告げる。その電気さえ違法で取っているものだ。少年の家では、最もちゃんとした働き手になりそうな兄は、ナチスの兵士だったので、隠れていて、市民としての正当な登録を怠っているので、配給も受けられない。毎日家の中でごろごろしている。姉はガイジンバーで、娼婦まではいかないが、「お相手ガール」として、煙草などのプレゼントをあてにして「働いて」いる。父は悪い病気に冒され咳がひどい。
 少年は小学校元教師と出会うが、彼もナチスの兵士で教職を追われ、ヒトラーの演説レコードを売る闇商売をしていて、少年に手伝わせる。その教師の少年を触る手つきや、教師が出入りしている「館」も、なにやら、「少年愛」の館を暗示させる。
 少年エドムントは、エドムント・メシュケが演じており、おそらく素人の少年なのだろう。その無表情がかえってリアルを感じさせる。
 なにもかもが、少年が生き抜くには難しい世界。彼は、元教師が、「病気で足手まといの父親は死んだ方がいいのだ」という言葉を真に受け、父親に毒入り紅茶を飲ませて殺害する。「先生の言ったとおり、父を殺しました」と元教師に言うと、「そんなことなど言ってない!」と驚く。
 混乱して街をさまよったのち、崩れかけたビルに入り、上から父の葬儀の様子を眺める。そのとき、彼は上着を脱いで、そこから飛び降りる。背中を向けたまま地面に叩きつけられる少年の細い肉体。女性が驚いて走り寄り、少年を抱き起こし、カメラは少年の顔の右半分の一部を映し出す。その顔は変化していないが、少年が死んだことは観客に確実に伝わる──。

 ドキュメンタリー・タッチとかネオ・レアリスモなどと言われるが、本作の奇妙な点は、ベルリン市民が、すべてイタリア語をしゃべっているところであり、主役の少年も名前からしてドイツ系と思われるのに、流暢なイタリア語をしゃべっているのである。ここになにか、意味のある意図的な「ねじれ」が込められているのかもしれない。また、そのイタリア語が印象的なのである。