山下晴代の「積ん読亭日常」

まっとうな本を読んでいく。

松浦寿輝詩集 『秘苑にて 』──もはや授ける賞がない(笑)

『秘苑にて』(松浦 寿輝 著、2018年11月書肆山田刊)

私が「邪推」したところ、書肆山田という出版社は、かつては、どこか大手で活躍していた編集者(集英社とか)が関わり(社主かどうかは知らない。たぶん、あとになって、ということかもしれない)、詩人の間では、自費出版の会社のひとつと思われているが、ある詩人たちは、「企画」ものではないか。誰が「企画」で、誰が「自費出版」かは、並んだ詩集のリスト(しおり)を見て、勝手に想像するしかないが(笑)。少なくとも、「企画」の最右翼はこのヒト。同じ会社から出たばかり(Amazonでは消えている(笑))の、細田傳造の詩集とは、かなり違った、細緻な作りである。こういう「有名人」で会社の格を維持し、有象無象のアマチュア詩人の自費出版で収入を得るのではないか?
そんな「背景」を考えつつ、たった今生協から届いた(e-honで、5%オフ(爆))ばかりの本書を開いて、「こら、すぐ書かナ〜」と思ったしだいである。
まず、ページを開くと、「割符」。

 そこにはいるために必要なのは
 傷を負った無意識と
 蛋白石の艶をおびた比喩

これは、「秘苑」に入るための入り口である。なにげなく、ダンテ『神曲』の「この門をくぐるためにはあらゆる希望を捨てよ」を思い出すが、ここで、すでに、ダンテには、はるかに及ばない。

次の詩は、「密猟」と来れば、目次だけ、「物語」=詩集の世界を想像でき、三十年にわたる「自身のもの思い」のようだが、まー、どうぞご勝手に世界である(笑)。著者には、そのへんの、賞を狙って、あっちへぺこぺこ、こっちへぺこぺこの、「アマチュア詩人」には手の届かない筆力と、教養があり、べつにダンテには手が届かなくても、痛痒は感じないのである。

このヒトを超えていくにはどうするか、であるが、新しさを求める以外にないように思う。では、その、新しさとは? それは、いろいろな意味での新しさがあり、ま、私なんか、それを模索中である(笑)。

私が二十代前半の頃の同人誌ですれ違った、上手宰(71歳くらい)の詩人にも賞の光があたってしまい(笑)、なんでも長くやってれば、それなりのいいこともあるのかな、であるが(上手氏は、どこかで、誰かわからない(笑)ブログをやられているようである)、それにしても、松浦寿輝は、上手の三十年先を行っているのだがな、年は7歳くらい下だが、ぬあんて思ってみたり、こと、幻にもせよ、「詩壇」なるものがあるとして、おそらく不本意ではあろうが、松浦寿輝を頂点とする世界は、平成とともに終わってほしいと思うのである(笑)。

とは、いうものの、本書は、その値段、2800円に値する詩集ではある。「値段に値する詩集」というのは、唯一、といっていいのではないか? まー、プロのお仕事ですね。そして、「アマチュア詩人」の方々は、こういう詩集を購入して、研究されたらいいと思いますよ。自分もそのつもりで購入しましたが。

 最終詩篇

 そこから出るために必要なのは
 傷が癒えたと錯覚しうるまでにかかる歳月と
 水にほとびた乱数表の断片

とくに、最終行、なにやら、思わせぶりっこだナ。序詩の最終行(「蛋白石の艶をおびた比喩」)同様。「蛋白石」って、どんな石なんですか? しかし、こういうふうに、イミフな行を、一行だけ滑り込ませると、詩としては、なんかすごく「そそられる」。そういうテクは見習ってもいいのではないか? おそらく、完全無欠に見える、松浦に欠けているのは、「俗」なのではないか。それは、決して、侮ってはいけないものなのではないか。なぜなら、それが、生の本質であるかもしれないからである。

****
(2019/6/23)

上記のように評して、★五つつけたが、今の日本の「現代詩」は、なんら基準はなく、なんかエライのかな? で、りっぱに見えてしまうが、読んでみると、わりあい予定調和に収まっていて、詩のわくわくするような魅力は皆無であることは、言っておかねばならないかな、と(笑)。
もっと少なく読む

https://www.amazon.co.jp/秘苑にて-松浦-寿輝/dp/4879959782/ref=cm_cr_srp_d_product_top?ie=UTF8

 

【昔のレビューをもう一度】『犬ヶ島 』──ゴダールはすでに終わっている。 (★★★★★)

犬ヶ島』(ウェス・アンダーソン監督、2018年、原題『ISLE OF DOGS』 2018年6月4日 10時52分

  ウェス・アンダーソンは、世界でほぼただひとり、映画で「現代思想」を表現している作家だ。それは、『ザ・ロイヤル・テネンバウムズ』(2001年)の時にすでにその萌芽を宿していたが、そのときは、ちょっと変わった映画監督にしかすぎなかった。テネンバウム家の三人の子どもはすべて天才児で、若くして成功している。という設定じたいが、今回の『犬ヶ島』で、現市長を選挙で破り、メガ崎市の市長となって、「ドッグ・ファースト」の街を作っていく12歳の少年、小林アタリを予言させる。『テネンバウムズ』では、長女は12歳で劇作家デビューしていて、これを、グィネス・パルトローが演じていて、アンダーソンのポスト・ポスト・モダン思想をすでにして体現していた。

 本作は、『ムーンライズ・キングダム』(2012年)の延長線上にあるような作品で、子どもの独立、島(しきりに島の見取り図が示される)、冒険、劇的な音楽、物語からの逃走が、基本として揃っている。従来の世界を支配しているおとなたちは、すでにどうしようもない迷路に陥っていて、ここから新しい秩序を作るのは子どもなのだった。そのヒーローに、小林アタリ、そして、彼を助けるのが、ふだんは人間どもにいいように扱われている犬たちである。そして犬の声を演じるのは、「かわいい」はほど遠い、オッサン俳優たちである。彼ら、ビル・マーレイジェフ・ゴールドブラムエドワード・ノートン、リーブ・シュライバーといった、ウェス・アンダーソン組常連の大物俳優たちが、早口で活きのいい口語英語をまき散らす。合間に、日本語が入る。音はカタカナによって視覚化され、デザインにもなって、映像美を形づくる。おバカ三兄弟のインド旅行を描いた『ダージリン急行』(2007年)の「主役」が、マーク・ジェイコブスデザインの旅行かばんだったところにも、この監督のデザイン性は表れていた(この作は、『戦場のピアニスト』で人々の涙をしぼったエイドリアン・ブロディが、ひとを喰ったお調子者で出ていることも見所である)。

 『グランド・ブダペスト・ホテル』(2013年)で、すでに、「ポスト・ポスト・モダン性」は頂点に達したかに見えたが、アンダーソンは、本作で、さらにその思想を深めたように思えた。それは、英語、日本語が入り混じり、古いものと新しいもの、歴史と現在が混じり合っているネット状況が、こうした作品を可能にしたように思える。その世界は、かぎりない細部へのこだわりが、未来への道しるべとも思える。

 今年のカンヌ映画祭で、かのゴダールが、いかなる姑息な方法を使おうが、すでに「そのスタイル」は古び、なんらかの思想を伝えることは不可能だった。いま、ウェス・アンダーソンのみが、今の思想を表現しうる。

 

【詩】「リルケに捧ぐ」

リルケに捧ぐ」

主に捧げる秋の詩の
錆色の葡萄傷心だけが私の唯一の収穫
宇宙の果てに消えた父を探して
出かけねばならないどうやって?
宇宙飛行士としての訓練もしてなくて
宇宙服もなくNASAにも登録してなくて
ナンタケットだけは覚えている捕鯨の基地
そうわれらの国は実験用として食用よりも多くの
鯨をとっていた主よ許したまえこの
愛らしい動物を解体して食っていたこと
iPad miniで聴くドイツ語が直接私に降り注いでくるそは
神のかたこと
もう13行目まできたのにブランクでやりすごし
いちばんたやすい詩法でごめんこうむるDie Sonette

『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド 』──落ち目なのはタランティーノ(笑)(★★★★)

『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド 』(クエンティン・タランティーノ
監督、2019年、原題『ONCE UPON A TIME IN HOLLYWOOD』)

 歴史=事実というものは変えてはいけないのである。そういうことが許されれば、ホロコーストはなかったという筋書きも、また、ヒットラーは善人だったという設定も許される。現に「シャロン・テイト惨殺事件」は、ハリウッドで起こってしまっている。これをあとから、実は、この映画の主演の、落ち目のテレビ俳優と、そのスタントマンのおかげで「難を逃れた」ということに「してしまって」、いったい何が救われるのだろう。シャロンの魂が救われるとでも? 「奇跡のラスト13分」というのはまったくの売り文句であろう。こういう売り文句でもなければ売れなくなった、落ち目の映画監督、それがタランティーノである。……ってなことを暴露してしまった映画と言える。映画愛かなんか知らないが、1969年のハリウッドのセットを舐めるように撮る、ひとつひとつのエピソードが長すぎる。気がついてみたら、三時間近くも座らされていた(笑)。
 しかしまあ、悪いところばかりでもない。ディカプリオとブラピという、或る意味「無冠の帝王」的二大スターを、落ち目スターと、そのツレの、スタントマン兼付き人という、実際の二人からはほど遠いキャラクターを創り出したことは近年の快挙と言える。とくに、ブラッド・ピットは、五十過ぎてなお若々しく美しく、演技も軽やかで心地よい。シャロン・テイトマーゴット・ロビー)が、この映画の影の主役という意見を、「Yahoo!映画」の評論家氏は書かれていたが、どーでしょーか? それほど魅力があったとも思えない。むしろ、この映画は、ブラピのかっこよさを見せつけるためにあったと言ってもいいくらいである。なんせ、誰よりもスターになって当然(つまり現実はそう)なのに、しがないスタントマンをやって、ディカプリオは一応豪邸に住んでいるが、ブラピはピットブルみたいな犬と、トレーラーハウスに住んでいる。若い女ヒッピーの誘惑にも屈しない。ディカプリオ邸のテレビのアンテナも「見ておいてくれ」とディカプリオから頼まれると、ディカプリオをスタジオに送ったあとに、道具を持って邸の屋根に上る。こういうどうでもいいような作業がていねいに描かれて、それがブラピの魅力を増す。そこから、隣りに引っ越してきた、ポランスキーの妻、シャロンが音楽で踊っているところも見えるのだが、ブラピは特別反応しない。ブルース・リー風(?)のスターにイチャモンをつけられて、カンフーの技をかけられるも、リーを倒してしまう。シャロンを惨殺するためにポランスキー邸に押しかけるはずの、チャーリー・マンソン(オーム真理教の麻原みたいなやつと思えばいい)の命令を受けた信者たちが偶然ディカプリオ邸にやってくると、台所(?)だかにいたブラピが応酬して殴り殺してしまう。マンソン以上に得体の知れない無気味なやつなのだ(笑)。しかし、このキャラは新鮮であった。ブラピはこの後、「ブラピ史上最高の演技」と言われる、SFものにも出るし、意外や意外、ただの昔美形のオヤジではなかった。ことだけが、印象づけられる映画なのである。
 タランティーノは10作作ったら映画をやめるというウワサがあるが、本作が9作めである。これまで、私は8作は観ているが、10作目を撮る前にオワコンの雰囲気(合掌、アチャーッ!! それにしても、ブルース・リー風の役者はちんけすぎた。ファンから怒られてもしーらないっと(笑))。

 

【昔のレビューをもう一度】『キングスマン:ゴールデン・サークル』──今年ベスト3(早いか(笑))!(★★★★★)

キングスマン:ゴールデン・サークル』(マシュー・ヴォーン監督、2017年、原題『KINGSMAN: THE GOLDEN CIRCLE』)2018年1月9日 7時57分 

 なんたって発想が新しい。死んだはずだよおトミさん~♪のハリー(コリン・ファース)に拾われ、キングスマンとして教育された、元ストリート・ボーイのエグジー(ターロン・エガートン)が、ほんもののスパイになっていく。ハリーの口癖、Manners make man(マナーが紳士を作る)をモットーに、英国紳士にして悪をやっつけるスパイになっていくのだが、このスパイ組織、「親方ユニオン・ジャック」ではない、つまりは、政府とどこかでつながっている組織ではないところがすばらしい。「キングスマン」は、名前こそ「キング」がついているが、英国製というほどのイミしかない。「女王陛下の007」とは大違いである。私設の組織である。だから、人民を無視する首相は失墜し、彼を補佐していたエイミー・ワトソンに告発される。という、「小さな」スジまである。
 007と大きく違うのは、主役は、若造で、しかもスエーデンの王女と恋に落ちたため、逆タマの、王子にまでなってしまうのである。彼女へ求婚したエグジーは、スエーデンの王と王妃という、「恋人の両親」との食事も、ハリーが教え込んだマナーと、同僚が「秘密の通信」(メガネがコンピュータになっている)で与える知識によって、教養も礼儀作法も王家にふさわしいムコとなるところは痛快である。
 おっと、メインストーリーは、ジュリアン・ムーア扮する、悪の麻薬組織を壊滅させるまでの戦いであるが、この悪の帝王は、今まで男性が演じてきたが、予想されたようなお飾り的存在ではなくて、しっかり堂々と「強敵」なのである。
 テーラーを隠れ簑としている「キングスマン」は、同僚をやられ、マーク・スロング扮する、メカ担当のマーリンと、エグジーしかいなくなって、「最後の非常事態」用のウィスキー試飲部屋に入ってみると、そこには、スコッチはなく、バーボンがあり、瓶の銘柄は、「ステイツマン」とある。いざ、アメリカ、ケンタッキーのバーボン製造所へ!
 ブーツを履いた「ステイツマン」側には、カーボーイなお兄さんたちが待っているが、ここでもスジはそれほど単純ではなく展開する。
 そこには、眼を撃たれ死亡したハリーが生きていて、もとの「キングスマン」リーダーに返り咲く──。なにがおかしいと言って、小技の武器が、007よりエロいのである。そのひとつは、コンドーム型指サックで、エグジーが「フェスでコマした」敵側のオトコの恋人の女の「そこ」へ差し入れると、「粘膜を通した情報」が、ハル・ベリーらのモニターに映し出される。「あら、テキーラチャニング・テイタム)もやってたのね、感心!」なんていうセリフまである。
 小柄な体に筋肉をつけたエグジーだが、やはりどこか少年っぽく、そこが魅力で、抜群の運動神経も武器ではあるが、襲ってくるメカを「ハッカーして」逆に敵に向かわせるなど、現代的で小回りが利いている。もうオッサンがかっこつけて美女を侍らせる時代は終わった。エグジーはあくまで王女の恋人ひとすじで、昔のストリート仲間とつきあっている。政府などあてにならない時代のヒーローにぴったり。


【昔のレビューをもう一度】『あるいは裏切りという名の犬 』──「大ワル」フレンチオヤジ(★★★★★)


あるいは裏切りという名の犬 』(オリヴィエ・マルシャル監督、2004年、原題『36 QUAI DES ORFEVRES』)2007年2月5日 10時19分

 ダニエル・オートュイユ、ジェラール・ドュパルデューの二人の、「ちょいワル」イタリアオヤジなんて目じゃない、「大ワル」フレンチオヤジが、ライバル同士の刑事に扮し、火花を散らす、フランス・ハードボイルドもの。
 これが、ハリウッド映画なら、せいぜいが30代半ばの、美しい男を主役にするんでしょうが、ところがどっこいフランスは「おとなの国」ですから、こういう、50代も後半のオッサンたちが、どんどんぱちぱち、がんばるんです。
 このテの刑事モノにつきものの、裏切り、密告、暴力など、一応のメニューは詰まっているが、ハリウッド映画を見慣れた目には、なにか物足りない。それは、脚本のキレだったりするかもしれない。
 しかし、本作は、なにより、「フィルム・ノワール」なんである。なにより、その香りをあじわってほしい。それは、題名にも、よく現れている。『あるいは裏切りという名の犬』。なんて、かっこいいんでしょう。原題は、『36 quai des orfevres』。直訳すれば、『オルフェーブル河岸36番地』。「そのまんま」(笑)パリ警視庁の住所です。
 フランス人なら、「オートュイユ+デュパルデュー」両オッサンの刑事モノというだけで、邦題に見合う「香り」は感じ取っているんです。
 でも、日本人には、こういうかっこいい題名が必要なんです。
 ノワールな気分(?)に浸りたいヒトに。

【詩】「仮死の秋」

「仮死の秋」

「……何より顕著なのは、『知の考古学』から厳しく身を引き離そうとしている仕草である」(蓮實重彥著『批評あるいは仮死の祭典』せりか書房、1974年刊より)

20年前は、蓮實重彥と橋本治を愛読し、「ふたりのハ」と呼んでいた。あれから20年以上経ち、もはや彼らの著書を開くことはなくなったが、ふと、扉のついた本棚から、数冊の蓮實重彥の本を取り出してみた。わたくしもまた、「彼らから厳しく身を引き離そうと」していた。橋本治の本も、『窯変源氏』『双調平家』を中心に、多作で知られる氏の本の全著作の、半分くらいは持っていただろうか。とくに、初期のエッセイ本は、氏の独創的な思想が如実に出ていてずいぶん感化されたものだ。しかして、
橋本治氏は死去され、蓮實重彥氏も、論壇の中心(であったことはないかもしれないが)にはいない。

そして、激しい雨が降り続き、本棚の中の、安岡章太郎『慈雨』も取り出してみた。

ついでに、すばらしい装丁(菊地信義装幀、赤瀬川源平装画、河出書房新社、昭和52年刊)、吉増剛造詩集『黄金詩篇』、『わが悪魔祓い』(菊地信義装幀、加納光於装画、同社、昭和53年刊)も取り出した。パラッと見ただけであるが、後者の方がよいような気がした。前者の最初の詩が凡庸だったので、読み続ける意欲をなくした。概して中身より装幀が勝っている本である。派手な装幀家が手がけると、往々にしてそんな感じになるのか。まあ、あまり装幀には凝らない方がいいだろう。
蓮實重彥の本の装幀は地味である。しかし、ひらけばそこに、題名どおりの、「仮死の祭典」が展開されている。これからも、
蓮實重彥は読んでいくだろう。

仮死という言葉が似合う
この時代の
秋である。