山下晴代の「積ん読亭日常」

まっとうな本を読んでいく。

『スポットライト 世紀のスクープ』──絶滅に近い「記者魂」を描く(★★★★★)

スポットライト 世紀のスクープ』(トム・マッカーシー監督、2015、原題『SPOTLIGHT』

 アメリカには、日本のような、「全国紙」はない。「ニューヨーク・タイムズ」も、「ワシントン・ポスト」も地方紙である。アメリカのような国土も広大なら国民もいろいろな国には全国紙は意味はないだろう。そして、本作の「ボストン・グローブ」である。ここには、記事の内容に口を出す「社主」も「スポンサー」も登場しない。一定数の読者を獲得しているある地域の新聞は、記者魂を貫こうとすればできる。その見本のようにも思われる。私も、まだ大学を卒業する前の2月から地方紙の記者として働いていた。しかし、たいてい、こういった理想からはほど遠い。それに時代もちがう。今の日本では、地方紙は、国際的ニュースは、通信社から買い、「全国紙」のまねをし、広告主に迎合する。権力者に逆らうことは不可能であろうと思われる。
 マイケル・キートンには、記者がよく似合う。「バードマン」のような、元ヒーローは彼の本質には合っていない。かつて、『ザ・ペーパー』(1994年、ロン・ハワード監督)で、二流紙の記者を好演したのが非常に印象的で、今もってときどき思い出す。この時は、女性上司のグレン・クロースにしごき抜かれる。一流紙への転身を図ろうと、面接に行ったキートンが、一流紙の担当者から「おたくは軽い新聞だから」と言われてキれ、記者魂に目覚める──。二流紙の意地を見せる。あれから20年経っても、彼は同じような記者魂を見せ、しかもそれは成熟している。
 むくつけき異人役の多い、リーブ・シュレイバーも、知的な編集局長が本来の人柄のように思えてくる。この編集局長の意志がなければ、世紀のスクープはなかった。「スポットライト」というコラムで、数回取り上げられた神父のスキャンダルに目をつけ、それを発展させようとしたのだから。しかも時は、あの「9.11」が起こった時である。世間の目は当然、そちらの方へ向く。
 そして、組織的とも言える、カトリック教会内部の犯罪とその隠匿。これは、私も、カトリックの神父を取材した(個人的ではあるが)ことでもわかるが、まず、カトリックの神父は、妻帯が許されるプロテスタントの牧師と違って、司祭に除せられる際に、「生涯独身の誓い」をしなければならない。およそ、女性との交渉以外の「楽しみ」はなんでも許される面もあり、私が接した神父も、ヘビースモーカーの大酒飲みだった。そして、バチカンを頂点とする権力構造も、このような事件を起こしうる要因となっているかもしれない。
 とにかく『悪魔と天使』や『告発の行方』のような、「カトリックものミステリー」にすることなく、ただただ記者の働きだけを追っていくストーリー展開には、すがすがしいものがある。そして、記者の求めるもの=具体性を常に明確にしている。マーク・ラファロの「けれん味」のない演技も、チームの一員という感じをよく出している。
 Facebookのニュースラインに流れてくる、世界各紙のニュースを見ていると、いま、こんな感じに近いと、私が感じるのは、イギリスの「ガーディアン」紙である。しかし、残念ながら、こういう記者魂は、もうほとんど絶滅に近いのが事実ではないだろうか。その点でも、本作は貴重なのである。