山下晴代の「積ん読亭日常」

まっとうな本を読んでいく。

『ルーム』──誘拐、監禁、強姦の美化(★★)

『ルーム』( レニー・アブラハムソン監督、2015年、原題『ROOM』)

 たしかに、画面は美しいし、この種の「事件」にありがちの、というか、想定されうる場面は、極力「描かれていない」。映画で描かれる「事件」を冷静の見つめるなら、17歳のスポーツの得意な女子高校生が、犬をどうかしたと話しかけて来た(作中、母親とやりあう、主人公が、「ママがみんなに親切にと言ってたから、私は犬を……」てなことを言い、漠然と誘拐されたきっかけが語られる)男に誘拐され、監禁され、強姦され子どもを産む。監禁は7年間続き、子どもは5歳となった。ということは、少女は、19歳の時この子を産んだことになる。18歳から妊娠していたことは十分に考えられる。出産はいかになされたのか? 男との関係はいかに変化していったのか? 7年も監禁された人間の精神状態の変化は?
 そういうことを、「すっ飛ばし」、映画は、5歳になろうとする息子と母との、監禁された部屋での生活から始まる。テレビ、ベッド、ソファや調理器具などが与えられている。息子はその部屋しか知らないで育つ。「犯人」の男は、(子どもの話からすると)日曜日にやってきて、生活に必要な品と、自分の欲望、端的にいえば、「被害者」との性交をして帰って行く。ドアは頑丈で、数字を入れて開ける方式になっている。壁に窓はなく、天窓から空が見え、昼夜や天候、光の具合はわかる。「被害者」は、必死に息子を育て教育しようとする。その監禁された部屋で、筋肉、体力、肉体の健康、心身の健康などを保とうとする。利発な少女であることはよくわかる。息子も限られた環境で、りっぱに育てようとする。
 そして、息子を死んだことにして、絨毯に巻き、男に捨てさせる計画をたて、息子には、どういうきっかけで逃げるか、教え込む。そして、「奇跡」がおこる。これは、まったくの「奇跡」である。そして、「幸運なことに」、被害者の親(両親は離婚していたが、両方とも、財産的にも愛情的にも良好な状態であった)は、彼女を迎え入れるに十分な環境にあった。実の父は、彼女の産んだ子どもを正視できない。これがこの作品でいちばんまっとうな態度であると思った。はじめから、親子が監禁されたのとは違う。娘は犯人にレイプされた結果産んだ子を育てているのだ。もちろん、いかなる子どもとて、子どもに罪のあるはずはない。子どもはいかに劣悪な環境であろうと、自分の育った環境を受け入れ、それが「ホーム」である。だから、彼は、「あの部屋に帰りたい」などというのである。
 日本でも以前から、そして最近も、少女を誘拐、監禁する事件が起こっている。しかし、アメリカであったケースに比べれば、「少女を少女のまま監禁したい」という欲望による犯罪であるように見える。私が以前見たアメリカのニュースでは、この映画の主人公のように、少女時代に、誘拐、監禁されていたが、子どもは何人も産まされて、しかも、その子どもも、レイプされていたなどというケースがあったと思う。
 そういう忌まわしい事件の現場からすると、本作の「ルーム」は、わりあい「こぎれい」なのが意外だった。
 そう、少年は、はじめて「リアルな世界」を知って、よかったね、とたいていの人は言っている。私は少年役の子役をまったくわかいいと思えなかった。この子役は、将来、この作品をいかように解釈するのだろう? また、最後、監禁されていた部屋を見にいった帰りに、後ろ姿の親子の背中に雪が降り出し、一見希望があるようなエンディングであったが、まともな神経なら、今後、このふたりを、さまざまな心理的、世間的障害が襲うだろうと思うだろう。
 本作がいかに「希望」を唱っていようと、こんな映画を作ったら、また同じような犯罪が起こり、そして、犯人たちをどこか許してしまうような余地を与えてしまうだろう。まるで、ガス室で生き残って、しあわせになった人々を描いた映画のようでもある。映画的できがいかによくても、このような映画は作ってはならなくて、作るなら、もっと覚悟をした映画作り(犯罪の深刻さにもっと深入りする。7年も監禁されるという状態がどうあるか)であるべきだ。この映画に、リアルなものはなにひとつない。すべてが、ある種の人工的な状況を作り出すためのご都合主義だ。犯罪をメルヘンにすり替えてしまったとも言える。
なお、原題『Room』であるが、冠詞などがついていないので、「The(あの)」でも、「A(ある)」でもなく、単なる「空間」という意味であろうと思われる。

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