山下晴代の「積ん読亭日常」

まっとうな本を読んでいく。

『ビール・ストリートの恋人たち』──ブルースを聴け!(★★★★★)

『ビール・ストリートの恋人たち』( バリー・ジェンキンズ
監督、 2018年、原題『IF BEALE STREET COULD TALK』)

ビール・ストリートとは、アメリカ南部、テネシー州メンフィスにある古い黒人街にある、ブルースの創始者、黒人作曲家、W.C.ハンディが住んでいた通りである。
 ジェームズ・ボールドウィンは、ただの「原作の黒人作家」ではなく、非WASPアメリカを代表する作家である。当然、非WASPには、ユダヤ人も含まれ、ベロー、マラマッドなどが、ボールドウィンと並ぶ。
 本作は、ほぼ、原作通りに、話者が、若い女性の、ティッシュの視点で貫かれ、過去と現在と、時間が自由に操られ、ともすれば、社会モノになりかねない作品の、深い内面化に成功している。ボールドウィンは、黒人だが、社会的なスタイルを持つ作家ではなく、プルーストにも通じるような、内面的な作家であり、そこから批評性がより強烈に表現される。
 映画が描き出すのは、ごくあたりまえの黒人の一家である、それは、小津安二郎の世界にも通じるような、ほんわかした生活がある。両親があり、姉妹があり、幼なじみの恋人がいる。
 ただひとつ違っているのは、その恋人が、レイプ犯として逮捕されてしまうことである。ここから、話者の女性、通称ティッシュの苦悩が始まる。恋人を疑うなどということは、まず考えられない。だから、一家中が、彼の無実を証そうと奔走する。『失われた時を求めて』では、日常を綴ることによって、プチブル、貴族社会の構造が明らかにされるが、本作では、絶望的な差別社会が浮かびあがる。
 もともとはネイティブの土地であった、アメリカ大陸を、WASPが略奪し、アフリカから黒人奴隷を「輸入」した。それが、差別の構造の土台である。この土台の上に、恋人たちの愛がある。そして、絶望ゆえに、黒人たちは暴動を起こす。鎮圧に向かった警察や軍隊が、「個別に」、黒人たちを襲撃する。そういう世界を暴露するのが、ボールドウィンである。
 そして、その絶望の魂を歌うのが、ブルースである。映画は、多くのブルース、ソウルの歌手たちを引用し、1970年代の叫びを、現在に届ける。だから、ブルースを聴け!