伊藤詩織さん事件に思う。
『家族を想うとき』──明日は我が身(★★★★★)
『家族を想うとき』(ケン・ローチ監督、2019年、原題『 SORRY WE MISSED YOU』)
批評氏は、「プワー・ワーキングクラス」などと、他人事のように書いておられたが、はたしてそういう「クラス」を描いた映画なのか? ある夫婦がおり、二人の子供がおり、持ち家を持って「人並み」に暮らすことを願っているが、現実はどんどんその「願い」(「夢」というほどご大層なものでもないだろう)から逸れていく。
本作は職種が問題なのだ。夫は、「自営」の宅配業者。昔でいえば、トラック持ち込みの運転手である。しかしその内実は、昔とは違って、流通革命によって生まれた職種である。流通革命とは、ネットを通じた売買によって、思ってみない速さで商品が届けられる現実である。これを支えるのが運送業者であり、どこよりも速く確実に、が競争となる。一時、Amazonの倉庫も奴隷制の過酷さであると告発されたが、この映画で描かれているように、今は宅配業者がそういう目にあっている。そして、その「両輪」として、介護の仕事があり、妻はその仕事に従事して、こちらもフリーで、訪問介護をしている。介護の仕事の質は、介護者の人間性にかかっている。本作のアビーのような介護者が当たればいいが、ということになる。それでも、これも過酷な仕事であることに変わりはない。宅配業といい、介護業といい、需要は多いが、そのシステムは完全ではなく、群がる人間もまた多く、熾烈な競争が、働き手を地獄へと追い込んでいく。
これはまさに、21世紀的な産業事情の世界を生きる、普通の人々の話なのである。「一歩間違えば」われわれもまた、この映画のような事態となりうる。そういう覚悟を突きつける映画であり、ゆえに、「答え」は描かれていない。どこかのバカが、結末がわからんと不平を言っていたが(笑)。そういうバカは真っ先にこの地獄へ落ちるであろう。
毎度思うことは、このニューカッスル訛り(?)を、いかにも自然に話しかつ、まったく役者であることを意識させない俳優陣には感心させられる。原題の「Sorry, we missed you」という言葉を、父親は、仕事で使う不在連絡票に、家族への書き置きを書くのだが、これを訳すのは難しい。「ごめんな、聞き逃して」とでもいうのか?
ともあれ、このような現実を映画にし、かつ、端正なカット割りで悲惨なだけでない美しさと清々しさを観客に感じさせる作品の存在は、過酷な世界に救いのようなものも思わせる。
『家族を想うとき』──明日は我が身(★★★★★)
『家族を想うとき』(ケン・ローチ監督、2019年、原題『 SORRY WE MISSED YOU』)
批評氏は、「プワー・ワーキングクラス」などと、他人事のように書いておられたが、はたしてそういう「クラス」を描いた映画なのか? ある夫婦がおり、二人の子供がおり、持ち家を持って「人並み」に暮らすことを願っているが、現実はどんどんその「願い」(「夢」というほどご大層なものでもないだろう)から逸れていく。
本作は職種が問題なのだ。夫は、「自営」の宅配業者。昔でいえば、トラック持ち込みの運転手である。しかしその内実は、昔とは違って、流通革命によって生まれた職種である。流通革命とは、ネットを通じた売買によって、思ってみない速さで商品が届けられる現実である。これを支えるのが運送業者であり、どこよりも速く確実に、が競争となる。一時、Amazonの倉庫も奴隷制の過酷さであると告発されたが、この映画で描かれているように、今は宅配業者がそういう目にあっている。そして、その「両輪」として、介護の仕事があり、妻はその仕事に従事して、こちらもフリーで、訪問介護をしている。介護の仕事の質は、介護者の人間性にかかっている。本作のアビーのような介護者が当たればいいが、ということになる。それでも、これも過酷な仕事であることに変わりはない。宅配業といい、介護業といい、需要は多いが、そのシステムは完全ではなく、群がる人間もまた多く、熾烈な競争が、働き手を地獄へと追い込んでいく。
これはまさに、21世紀的な産業事情の世界を生きる、普通の人々の話なのである。「一歩間違えば」われわれもまた、この映画のような事態となりうる。そういう覚悟を突きつける映画であり、ゆえに、「答え」は描かれていない。どこかのバカが、結末がわからんと不平を言っていたが(笑)。そういうバカは真っ先にこの地獄へ落ちるであろう。
毎度思うことは、このニューカッスル訛り(?)を、いかにも自然に話しかつ、まったく役者であることを意識させない俳優陣には感心させられる。原題の「Sorry, we missed you」という言葉を、父親は、仕事で使う不在連絡票に、家族への書き置きを書くのだが、これを訳すのは難しい。「ごめんな、聞き逃して」とでもいうのか?
ともあれ、このような現実を映画にし、かつ、端正なカット割りで悲惨なだけでない美しさと清々しさを観客に感じさせる作品の存在は、過酷な世界に救いのようなものも思わせる。
【昔のレビューをもう一度】『ヤング・アダルト・ニューヨーク』(★★★★★)
『ヤング・アダルト・ニューヨーク』(ノア・バムバック監督、 2014年、原題『WHILE WE'RE YOUNG』)──四十にして惑う(笑)。2016年8月21日 6時08分
●『マリッジ・ストーリー』のノア・バムバック監督の5年前の作品。同じニューヨークを舞台に、カップルのあたふたが描かれるが、本作に比べると、『マリッジ・ストーリー』は成熟が見てとれる。
原題は、『While we're young』(「若いうちに」)。舞台はニューヨークの、おもにブルックリン。『ニューヨーク、眺めのいい部屋売ります』の、ダイアン・キートンとモーガン・フリーマンの夫婦の20年前のような夫婦が、ナオミ・ワッツと、ベン・スティラーの夫婦である。彼らは、20年後には、熟成されて、いい味の夫婦になるのだが、今は、40代、若さの片鱗が彼らを惑わせる。その惑いを描いた映画だ。そういう意味では、「反論語的」映画と言える(笑)。
その40代の夫婦が、20代の夫婦と知り合い、「家族ぐるみ」でつきあい始めるが、その20代は、彼らの20年前というわけではない。おそらくこのカップルは、20年後には別れてしまっているかもしれない。そういう調子のいいカップル。成功のためならなんでもする、ということが、やがてわかってくる。
若いカップルの男の方、キアヌ・リーブスに似ているが、なんか顔相の悪い、すきになれない顔だと思ったら、こないだの『スター・ウォーズ』で、カイロ・レンになったやつだった(笑)。とにかく、この男が、主人公のスティラーと同じ、ドキュメンタリー作家で、スティラーの教えるアート・スクールに、アマンダ・セイフリッドの若妻とともに聴講に来て、積極的にスティラーに近づいてくる。アート・スクールで講師をしているものの、スティラーは、8年も新作を作ってない。一方、彼の妻のナオミ・ワッツの父は、すでに功成り名遂げたドキュメンタリー作家で、ナオミは、そのプロデューサーをしている。
結局、カイロ・レンは、もとい、アダム・ドライバーは、ナオミの父を目標にしていたのであり、そのやり方は、ドキュメンタリーながら、「やらせ」であった。ベンは、そこのところを譲れず、孤立していく。
一方、ベン夫妻と年相応の友人たちは、遅ればせの「子育て」を始め、赤ちゃんイベントなどに参加して、それなりに人生を謳歌している。ナオミは何度か流産して、もう苦しみたくないと思っている──。
苦い、人生は苦い。しかし、世の中には愛し合っている夫婦もいて、愛が確かなら、二人で成長できる。監督、脚本のノア・バームバックは、ポスト・ウディ・アレンと言われているそうだが、どうでしょー? ちょっと「ガチ」すぎませんか? 「ガチ」って言葉、こういうふうに使うのかどうか、わかりませんが(笑)。
『マリッジ・ストーリー』──結婚という制度と愛は別物を露呈(★★★★★)
『マリッジ・ストーリー』(ノア・バームバック監督、 2019年、原題『MARRIAGE STORY』
ある夫婦の「離婚に至るまでの物語」ではなく、「離婚を決めた夫婦」の、離婚までの「物語」。ありふれた「夫婦決裂」のハナシではない。「結婚」という社会制度が、いかに人間の関係に介入するかを描いている。その社会制度によって、人間はさらに傷つけられる、それをどう生きるか。言い合いはあるものの、ここには、過去にあるどんな映画のステレオタイプもない。純粋な二人の関わりを、絡んでくる「社会」(弁護士、友人、配偶者ではない家族、肉親)がいかに翻弄するかを、リアルに描いている。わりあい長尺ながら、伏線もぴりりと利いている。ノア・バームバック監督は、ニューヨーク出身でかつニューヨークを舞台に、会話中心の作品を作るので、ウディ・アレンの2代目と言われているそうだが、アレンのように会話はしゃれてない。そのぶん、リアルに人間の生活を描き出す。ここには、犯罪者もいなければ、狂気もない。成熟した社会があるが、それが理想的かどうかはわからない。
夫婦を演じる、アダム・ドライバーも、スカーレット・ヨハンソンも、清潔感と知性が漂い、すがすがしいドロドロ(笑)を演じてみせる。結婚したことのある人にしかわからない、なんというか、実感が見える。結婚は、恋愛のような、一種の祝祭から始まるのかもしれないが、それが、二人の人間の間に介入した社会制度であることが露呈してくる。そんな実存主義的な(笑)事態に、いかに対処するかがこの「ストーリー」である。そういうことをあらためて提起した映画である。そしてその一方で、愛のようなものはべつに存在することも見せている。残念ながら、制度と愛は、関係がない。なんとかうまくごまかしやり過ごすこともできるし、完全なる決裂を招くこともあるし、その中間ですがすがしく生きることもできる。本編の結末は後者である。
【昔のレビューをもう一度】『ベロニカとの記憶 』──インドの監督が撮る、イギリスの光と陰(★★★★★)
『ベロニカとの記憶 』(リテーシュ・バトラ監督、2017年、原題『THE SENSE OF AN ENDING』
2018年2月8日 11時36分
学生時代に対して、とくにノスタルジックな思い出を抱いているわけではない、老いた男に、ある日突然、法的な手紙が来て、昔同窓生だった女の母親が彼に遺品を残したという。男は、その同窓生を知っているし、昔、ちょっとつきあった女だったし、彼女の家へも、ボーイフレンドとして招待されたことがあったので、当然その母と会ったこともあって、その母が、彼になにかを遺したというのだ。はて? 男は遠い記憶を探る──。
ジュリアン・バーンズの小説の冒頭はそのイメージからはじまる。そのうちのひとつに、シンクに投げ入れられた熱したフライパンがある。卵焼きができあがる寸前のフライパンが、突然水を張ったシンクに投げ入れられ、「ジュッ」という音をたてる。ささいな記憶。それは──。彼女の母親が、彼女のボーイフレンドの朝食を作ってくれていて、卵を焼いていたのだが、「あ、失敗した!」といってフライパンごと水に突っ込んだ。大したことではないが、奇異なことである。普通、人はそんなふうにはしない。それで、記憶のどこかに残っていた。エキセントリックな母親だった。まだ若く美しかった──。その母親が遺したものは、男の友人の日記だった。その友人は自殺した。それは──。男から奪った彼女が、妊娠したからだと思っていた。男は、二人の仲を嫉妬し、「二人の子どもは呪われろ!」と手紙を書いた矢先だった。そんな手紙こそ、若者なら誰でも書く。男はごく普通の男だった。しかし、接した人々は、多少クセのある人々だ。それが、彼の記憶を形成する──。
男は元カノの母の遺品である、友人の日記(どうして、そんなものを元カノの母が持っていたのだ?)を不審に思いながら、入手する手続きを取ろうとするが、その日記は、すでに、元カノが横取りし、処分してしまっていた──。なんで? 男はその元カノに会う。あいかわらず、ミステリアスで冷たい。その、老いたベロニカを、シャーロット・ランプリングが演じ、まさに適役である。
観客が想像するような関係には至らなかった二人である。「ベロニカの記憶」ではなく、「ベロニカとの記憶」。男は偶然、自殺した友人にそっくりの若い男を見かける。名前も同じエイドリアンだとわかる。なにより背が高かった、それも受け継いでいる。知的障害があるので、集団で面倒をみられていた。そこにはベロニカもいたので、てっきり、それはベロニカと友人との子どもだと思った。だが、実際は違っていた──。それは、友人の日記を所有していた人が産んだのだった。ベロニカは母親ではなく、姉だった──。
英国詩に特有なキーワード、sadとsweetを、かつて植民地であった国、インドの監督が描く。的確であり、詩である。