山下晴代の「積ん読亭日常」

まっとうな本を読んでいく。

蓮實重彥『伯爵夫人』(一部、『新潮』2016年7月号)(★★)

蓮實重彥『伯爵夫人』(一部)(『新潮』2016年7月号、新潮社刊)

 三島由紀夫賞(新潮社の賞なので、当然、『新潮』などに載った作品が有利)受賞の蓮實重彥『伯爵夫人』の全文掲載号は、Amazonで6800円にもなっているし、単行本もすぐ出るのだろうが、それまで待ってられないので、本号掲載の9ページぶんを読んだが、蓮實氏に言わせれば、小説の最初から最後まで読むのはバカなので、まあ、これくらいでいいのだろう。

 氏の受賞に関しては、マスコミ(ほんの一部だけね〜(笑))で話題になり、かつ本人も、「私の作品に授賞させるなど暴挙だ!」などと、「怒っている」パフォーマンスをされたようだが、こういう人の地位にあれば、小説がよいなら、もっと早くに評価されていると思いますがね。この場合の評価とは、べつに教養のない選考委員のセンセイ方が「瑕疵がなくて完璧だ」というのではなくて、一般読者がつくという意味です。だいたい、こういう、ほとんど出版社の収益にも文化向上にも貢献していない文芸誌なるものを主な活躍の場としている方々は、同誌で私怨を「書かせてもらっている」金井美恵子センセイといい、自慰的行為を、芸術と勘違いされているヤカラが多い。

 ま、蓮實作品もその一つである。これは、まるで金井美恵子と同じ手つきと趣向で書いた、フェティッシュ自慰小説である。つまり、細々、自分の気持ちいい描写を続けながら、物語は一向に動いていかない。べつに、エンターテインメントのストーリー展開という意味ではありませんよ。つまり文章(思考)が全然進んでいかないのね。

 なんか恰好つけて、旧字を使っているが、どうせなら旧かなにもすればいいのにと思ったが、そこまで自信がないのだろうか? 旧かなは、日本の古典スジの文脈が身についていないと使いづらいのではないかと思う。古い文学者(明治生まれの)でも、中国文学者の吉川幸次郎などは、新かな使いである。

 「伯爵夫人」とあだ名される女を、二郎という、ええとこのぼんぼん(だいたい蓮實とか三島なんかは、こういうのしか書けないのでは?)の視点から描いた作品と見た。一見無垢かつ大胆な従妹の蓬子が出てくるところなど、蓮實ケイベツの、村上春樹風で、しかも、配役は(って、映画化かよ(笑)?)、水原希子(こんな字だっけ?)を思い浮かべてしまった。

 ろくでもないメンツの選考委員の感想はすっ飛ばし、蓮實氏の授賞インタビューを読んだが、まー、言いたいこと言ってますね〜。こんなものにつきあったら、いくら時間があっても足りないよ。

 さらに、てきとうにページを開くと、金井美恵子センセイのコラム?……と思いきや、川端康成賞の候補になっていたのも知らず、勝手なことを言われて落選させられ、ご立腹の様子を、同じように、三島賞で、落選させられ、選考委員の内容に関する間違いにクレームつけた黒川創氏に同感している。
 まー、酔狂にもたまに金出して買うわれわれ一般読者にとっては、どーだっていいことである。モンクをつけようが喧嘩を売ろうが、どうせ、金井氏も黒川氏も、『新潮』に連載させてもらっているんだからいいじゃん、である。こうした態度は、まともな世間では許されないことである。
 文芸誌とは、頭デッカチの書き手の、重箱の隅のほじり合いと見た。それが面白ければ、買うしー。

 長年の自称「蓮實重彥研究家」として言えば、蓮實は、映画評論がいちばんよく、文芸評論はやや落ち、さらに落ちるのが、小説である。選考委員のセンセイ方は、蓮實を「落とす」のが怖かったのでは?
 まあさ、自作を間違って読んでいる、などとモンク言ってもさ、だいたい誰も読んでないんだってば(笑)。

 蓮實の『伯爵夫人』の「口直し」としては、石川淳をオススメします。エロスとスピードと、まっとうな日本語。これだ!

新潮 2016年 07 月号 [雑誌]

新潮 2016年 07 月号 [雑誌]