山下晴代の「積ん読亭日常」

まっとうな本を読んでいく。

【詩】「生きる喜び」


「生きる喜び」


 小学校から帰ってくるとき、わが家が見えると、ひときわ貧しさが目立って、それはトタン屋根だったから、恥ずかしくて、たまに、違う町内の同級生がくっついて来ることがあると、自分の家を見せまいとして、違う道を帰ったものだ。
周囲の家は一応瓦屋根だったが、うちはトタン屋根だった。というのも、もともと父母が結婚した時、ある家の物置を多少改造して借りたらしい。それがわが家だった。最初は水道もなく、隣りの大家から母が水を甕に運んでいた。その甕には、たまに三河一宮の母方の祖母が持って来た、黄瓜が浮かんでいることがあった。
 六畳と四畳半と台所はいつまでも続いて、勉強部屋がないので、みんなが寝静まった夜中しか勉強する「空間」がないので、私は自然夜型になってしまった。
父母はよく夫婦ケンカをして、止めの入るのはたいてい長女の私だった。自分は悪くないのに、「私が悪かった。許して、ケンカしないで」と父母に謝ったこともあった。
たいていはお金のことが原因だったと思う。
記憶に残る大げんかは、父か母のどちらかが、ハサミ、母が洋裁で使うラシャバサミを持ち出してがなり合いをしだした時だ。危機を感じた私は、隣りの大家のオバサンを呼びにいった。オバサンがのそのそとやってきて、「まあ、およしんよ、ひろしさん」と声をかけた。
 私は瓦屋根を夢見たし、自分の勉強部屋を願ったし、尊敬できる父親にあこがれたし、ヒステリーを起こさないほんとうの母親がどこかにいるのではないか?と妄想したりした。
けれど、すべて現実で、現実は延々と終わりなく続き、しかし、夫婦げんかはどこかで終わったらしく、父母は別れもせず、家は破産もせず、現在に至っている。
86歳の母は、87歳の父を病院から引き取り、いまは赤ちゃんが「はいはい」したり、「たっち」したりするのを楽しみにするのに似たような、回復を楽しみに面倒をみている。
彼らはつまり、しあわせだった。
 国を捨てねばらぬことも、自分の家から追い出されることもなく、労働者としてりっぱに働いてきたから、暮らしを立てていくだけの年金はあり、人間としての尊厳を保っている。そして、生きる喜び。