山下晴代の「積ん読亭日常」

まっとうな本を読んでいく。

【詩】「まだ夏が好きなのだろうか?」

「まだ夏が好きなのだろうか?」

ブックオフ(オンライン)へ出すための本を、
リビングの扉付きの、いつもは見ることのない本棚で探していると、
昔の同人誌仲間だった詩人の、
薄い、けれどハードカヴァーの詩集が出てきた。
もちろん、ブックオフには出さない。
出したところで値段はつくまい(と、思われる)。
あらためて読んでみると、昔はわからなかった魅力が
今はよくわかって、言葉を最小限に使おうとする詩人の
筆力のようなものに感心した。
この詩集は、なんらかの賞を取るべきだった──。
しかし詩人は、切り詰めた表現の現代詩さえ長すぎると思ったのか、
俳句の方へ行ってしまった。
われわれの交流は、それよりはるか昔に途切れ、
途切れた時点も、理由も、明確だ。
そう、ある意味、「青春」をともにした詩人であるが、
すでに「階層」が違っていた。
詩集の中に描かれている、というより、大学生の甥の視点で描いた作品は、地方に住む詩人が、東京に出て行き、甥のアパートに、
深夜酔っぱらって泊まり、翌日の午前中には帰って行く、
毎度の様子を描いたものだが、この甥は、叔父である詩人から
こづかいをもらうのだが、今はすでにある分野の有名人の権威と
なって久しい。
すでに三十年経過しているのだから。
詩集のなかで詩人は、少年時代から続く、夏へのある心地よさ、
なんの心配もない家族のなかでの夢心地を、
反芻するように描いている。
妻はかつての高校の同窓生で、
若き恋を実らせ、収入も社会的地位も保証されたような境遇にあり、
楽しみで詩を書いている、
そんな人生、、、
つまりは、この私とは、なんの関係もない人の人生。
ネット活動は、卑しい、「アカ」じみた人間のすることか?
そう思っていないまでも、詩人、いまは俳人? は、
ネットには姿を現していない。
短い、さっぱりとした詩が十四編収まった詩集の、
終わりまで読んできて、最後の表題作は、
「私は夏が好きだ」と始まる。
そして、私はふと思うのだ。
この人は、すでに老いの領域に足を踏み入れて、
まだ夏が好きなのだろうか? と。