山下晴代の「積ん読亭日常」

まっとうな本を読んでいく。

『誰のせいでもない』──フォークナーはお好き?(★★★★★)

『誰のせいでもない』(ヴィム・ヴェンダース監督、 2015年、原題『EVERY THING WILL BE FINE』)

 ひどく文学的な映画である。本作で一番感情移入できるのは、シャルロット・ゲンズブールである。彼女(役柄名ケイト)は、カナダ(ここが舞台の映画は、いつも閑散としてものさびしい。アメリカの田舎との違いは空間でわかる)、モントリオール郊外の山の中とも言えるような家にシングルマザーとして、依頼されたイラストなどを描いて生活している。

 ほんとうは、作家であるジェームズ・フランコが主役で、彼をめぐる、3人の女の話だが、この4人は、べつに愛憎にもつれるわけでもなく、ただ、「袖擦り合うも他生の縁」的よりも、さらに、淡く交わる。

 スランプ作家のフランコが雪道を車で走り、何かが突然ぶつかってきたので急ブレーキを踏む。車を停めて見に行くと、車の前に赤いプラスチックのソリに乗った5、6歳の男の子が呆然としている。男の子は、おそらくはショックで口が聞けない。見ると丘の上に家があるので、その家に送り届ける。その時、男の子の歩みが遅いので、肩車をしてやる。
 母のシャルロットがドアから顔を出し、「おたくのお子さんで?」と、フランコが言うと、シャルロットは驚きの顔をし、あたりをきょろきょろ。もう一人いたのだ。
 そう、弟の方が、事故で死んでいた。崖下に落ちたのだろうか? とにかく、その状態は見せず、警察がフランコを家に送っていくところしか、事故関係は見せない。当然フランコにはなんの罪もない。しかし、彼は苦しむ。

 二年後、シャルロットが突然、夜中にフランコに電話をかけて呼び出す。応じて、例の事故現場でもある、彼女の家に行く。シャルロットは、「いっしょにやってほしいことがあるの」と言ったあと、「フォークナーは好き?」と聞く。「好きでも嫌いでもない。自分の作品しか興味ない」と答えるフランコ。「そう言うと思ったわ」。それから、本のページを破り、暖炉に本ごと放り投げて燃やす。「私はフォークナーに夢中になっていて、子どもたちを家に入れずに、もっと遊んでらっしゃいと言ってしまった」。つまり、罪は、シャルロットにあったと告白。

 レイチェル・マクアダムスは、事故前からの恋人だが、子どもをほしがる彼女と、作家道に邁進したい(だが、スランプ)のフランコで、生き方食い違いで、結局、別れる。10年後。コンサート会場で会い、ほかの男と結婚し、子どもも2人できたマクアダムスに、言い訳じみたことを言い、往復ビンタをくらうフランコ
 結局、フランコにも編集者の恋人ができ、彼女の連れ子と同棲→結婚になり、文学賞も取り、名声を得る。
 あの事故のことを小説に書いて以来、がぜん進歩したのだ。一方、シャルロットは、事故を克服できず、子どもの学費のために家を売り、旅に出たと、成長した事故の生き残りの男子に知らされるフランコ。その男子も「作家志望」で、フランコにつきまとっていた。最初にシャルロットに呼ばれて家に入った時、フランコに肩車された少年の絵が目についた。もしかして、少年は、そんなことされたのは生まれて初めてで、とてもうれしかったのではないだろうか? 弟は死んでいるというのに。しかし、子どもなんてそんなものだ。

 複雑な物語であるが、ただ言えることは、「作家」という職業の胡散臭さ。そして、ほんとうは愛し合うべき男女が、ただ触れあっただけで、永久に出会うことなく人生の闇に消えてしまうことも、ある。ということ。いや、「その後」、もしかしたら、フランコは、シャルロットを探して、旅に出るかもしれない。そうしたら、ほんとうの作家になれるのにね、というオハナシと見た、私はね。

 フォークナーに我を忘れる女なんて、そうそういるものではない。