山下晴代の「積ん読亭日常」

まっとうな本を読んでいく。

『愚行録』──見ることの快楽(★★★★★)

『愚行録』(石川慶監督、2016年)

 さすがポランスキーが出た「ポーランド国立映画大学」で学んだことを思わせる、日本的スタイルからは完全に脱している作風である。そういう作品のなかでは、妻夫木聡がファスベンダーに見えてくる。事実、妻夫木は欧米俳優なみの集中力(本作では、ひさびさに見る、精神科医役の平田満をはじめ、ほとんどの俳優が高い集中力を発揮している。つまり表情が揺るがない)を見せている。妹役の満島ひかりも、同様の集中力を発揮、こちらも、キャリー・マリガンなみの演技力を見せる。事実、セックス中毒の兄をファスベンダーは演じ、その厄介者の妹を、マリガンが演じた。しかし、兄妹といえど、欧米ではどこまでも個人で、悩みも個人の範囲にとどまる。ところが、本作は、問題が、日本特有の陰湿さをはらんで、学校カースト、就活、飲み会、幼児虐待、などが、リアルな会話によって炙り出されていく。
 作中人物が「日本は格差社会じゃなくて階級社会だ」と言うが、欧米の階級社会はこんなものではないだろう。歴史にがんじがらめにされたそれは、もっと根源的で絶望的なものだろう。

 一部のレビュアーが物語のできに不満を訴えていたが、これは、映画の疵ではなく、原作が悪いのだろう。ミステリーとしてはありきたりな常套である。一家惨殺事件の犯人は、その一家に虐げられた人間──。いかに虐げられたか。吉田修一原作の『怒り』も、似たような物語であるが、ただ、あまり犯人の側に立っていない。事件を起こしたのは、ある人物の瞬時の「怒り」であったと主張している。本作は、「愚行」だったのだ。しかも「録」。そういう愚行を集めた記録? これは誰の視点だろう? 当然、妻夫木の視点だと思われる。そういう自分をどこか客観視しているような醒めた感覚が、「週刊誌記者」である妻夫木を貫いている。私ははじめて、この役者がよいと思った。

 暗い作品だが、ハイスピードカメラでとらえられた、なにげないバスの乗客たちのスローモーションの表情といい、老女に席を譲るように、ほかの乗客から叱られた妻夫木が、いやいや立ち上がってからバスの床に倒れ、実は脚が不自由だったと見せつけ、叱った男にばつの悪さを味わわせ、バスを降りてからも、しばらく不自由な歩行を続け、叱った男の気まずい表情をガラス越しにもう一度見せる。そうかこの主人公は脚が悪いのかと思った瞬間、正常な歩行に戻るシーンは、『ユージュアルサスペクツ』のケヴィン・スペーシーを思わせるが、そんなのっけから、見ることの快感に引きずり込まれ、いつまでも見ていたいと思わせる作品である。