山下晴代の「積ん読亭日常」

まっとうな本を読んでいく。

いわゆる「新風舎」事件

 ある人に教えられて、写真家の藤原新也氏のブログを見にいった。そこでは、「読者」から寄せられたメールが公開され、ある「事件」が話題の中心になっている。これを「事件」と呼ぶには、語弊があるが、とりあえず、多くの人々の間で問題化している事柄であるので、「事件」と呼んでおく。
 それは、出版社の新風舎(私も『公募ガイド』はよく買う(笑)ので、その出版社が、大々的に作品などを募集しているのは、目にする。また、同様の宣伝+募集を新聞などで見たような気もする)が、写真や小説などの賞をもうけ、作品を募集しているのだが、それに応募した人々の話によると、それら、応募者を、「共同出版」(内容は、ほとんど「自費出版」だが、この「ネーミング」が巧妙である。『公募ガイド』のネーミング塾に推薦したいぐらいである(笑))という名の「商品」を「売りつける」ターゲットとして、営業活動を執拗に行っているようである。
 それによれば、写真でも小説でも、「最終選考に残りましたが、とてもよい作品なので、当社から、『共同出版』という形で出版させていただき……」ついては、「貴殿に、費用を半分ご負担願いたい……」という「提案」をしてきて、その負担額が、200万円にもなったりするのだが、この世界の事情を知らない人々は、本が出せれば、そのくらいどうってことない、と思う人も多々いて、「アフターケア」(その本を「売る」ための営業活動など)も、その会社が言っているほどはされない「商品」を「買わされて」いるようだった。
 藤原新也氏がなぜ、こういった問題を取り上げているのかと言えば、氏のところに、新風舎から出た「無名写真家」の作品集が多数送られてきて、それがあまりに「粗悪」であるという一方、知人に、そういう「被害」にあった人がいたので、ブログで言及したら、次々「被害者」、あるいは、新風舎の元社員という人からメールが寄せられ、一種の「事件」として、磁場が形成されつつある。
 藤原氏自身は、それが、ある程度「出そろって」から、氏なりの「意見」を書く、ということだった。
 私がそのブログを読んで、とりわけ、印象に残ったのは、「新風舎の社長が、朝日新聞(Be欄だったという)に抱負などを載せていて、すっかり信頼した」という一読者の記述である。
 新聞というのは、広告と一般記事は、完全に分かれていて、私も、『朝日新聞』はたまに目を通すが、確か、Be欄というのは、「別冊」だったので、もしかしたら、一般記事ではなく、広告関連の記事であるかもしれない。そうすると、記者が自主的に取材するのではなく、広告関係社から取材してくれと頼まれたのかも知れない(あるいは、広告の「編集」記者が取材したとも考えられる)。しかし、まあ、一般記事でも、そういう「胡散臭い」出版社の記事はいくらでも載りうる。なぜなら、記者は、それが「確かか」より、常に目新しいものはないか、探しているからである。
 一応、大々的に広告を出している出版社の社長が、「マイナーな出版物の書き手を応援したい」と「きれいごと」を言えば、それは、新聞の恰好の記事にはなりうる。新聞というのは、その程度のものであると認識すべきである。
 そして、文芸出版であるが、それには、会社の大きさに関係なく、ある程度の歴史(どういう作家の本を出してきたか、あるいは、そういう作家を育ててきたか)が、「信用」の目安になり、一見新興の会社であっても、編集者がどこか別の実績のある出版社で長いこと仕事をしていて、独立したという場合が多く、それが、やはり、「信頼度」の目安になる。
 過去には、拙宅にも、「檸檬社」、「文芸社」(この二つは、おそらく同じ会社で、こういう会社は、次々名前を変えて、商売をする)なる出版社から、「同人誌の御作を拝見しました。出版しませんか?」みたいな、「編集者」の「丁重な手紙」が来たことが何度もある。しかし、それは20年くらい前のことで、今では、時代が変わり、新風舎のように、「賞」をつくり、「ベンチャー企業」の尻馬に乗ったような雰囲気の出版社の方が人目を引きやすいということだろうか? それに、ターゲットも、老若男女、さまざまな層に広げられているようだ。
 人の作品は読まないが、自分は本が出したい、という時代を反映した新商法と見た。しかし、その顧客情報の入手方法、説明が不完全である(わざと、ある種の情報を隠蔽している)ことなどが、商法というより、「詐欺」に近いと言われてもしょうがないところがある。
 出版界という特殊な世界について、あまり詳しくない人々が引っかかってしまったということだろう。私など、過去に、商業誌に4作載っても、反響がなければ、単行本の出版には結びつかず、また、担当者がその出版社内で、配置換えになってしまえば、また一からどこかに応募しなおさなければならない。ましてや、何の修行も積んでいない人々が、内容を問わず(ここがかなりの問題であるが、新風舎から本を出している人は、自作が世間に流通している「プロ」の作家とどれほどの違いがあるか、理解する力がないのだろうか?)、ベストセラーに直結するような本が出せるほど甘くはない。
 その新風舎から出た本は、藤原氏のブログに掲載されていたメール等からの情報によれば、80ページ足らずのものである。しかも版も小型版(正確なところは忘れた)である。「まともな本」が、80ページというのはおかしいという感覚さえ持てない人々だから、「騙されて」しまったのだろうか?
 普通の小説なら、250ページくらいは必要で、400字詰め原稿用紙で、400枚から500枚くらいに相当する。しかも、中身は、ひとつの作品として、一定の記述が維持されていなければならない。いわゆる、「自費出版」でも、最低これくらいはクリアしていなければならないのに、新風舎から出た本は、「小説」でも、記述内容の統一感もない、要するに、作品の形をなしていないものだったらしい。
 まあ、なんというか、起こるべくして起こった「事件」というべきか。
 新風舎の、顧客開拓のための「賞」は、写真の分野もあるようだが、こと文芸に関していえば、どの賞を選ぶかも、すでにその書き手の「知性」に関わっているのである。
 私も、「なにか賞に応募しよ~~かな~~~?」と思って、『公募ガイド』を買うのであるが、大々的に宣伝の出ている新風舎の賞には、関心を持ったことは一度もない。

 確かに、金のためなら、いかに粗雑な原稿でも、本にしてしまう新風舎のような「出版社」は言語道断であるが、しかしながら、いわゆる、老舗、大手と言われる出版社の本でも、場合によっては、その内容が、新風舎の出版物にかぎりなく近い(笑)ものも、多々あるというのが、昨今の出版界であるということも、記しておく。