山下晴代の「積ん読亭日常」

まっとうな本を読んでいく。

『ピース・オブ・ケーキとトゥワイス・トールド・テールズ』──現代日本文学の一惨状

『ピース・オブ・ケーキとトゥワイス・トールド・テールズ』(金井美恵子著、2012年1月新潮社刊)

 サマセット・モームは、普遍的と判断される世界の代表的な小説を選んで解説した、『世界の十大小説』という書物で、いかに傑作といえど、『ドン・キホーテ』も、ドストエフスキーの作品も、長すぎる。それは、その当時の作者には、わざわざ延ばして書かなければならない事情があったと言っている。そういう昔の事情をぶっ飛ばして、長編でだらだら書いているものが何かりっぱな作品ではないかと思い込んでいるふしは日本の作家にも認められる。気の利いた短編ばかり書いていたのでは生活していけない。
 本書の著者の金井美恵子も、実は、短編に秀作があった。それがいつの頃からか、だらだらとやるようになった。しかし、さすがに、何巻にも続くだらだらではない(それはそれで、力量がいる。つまり、それほどの力量はない、というか、ついぞ持つことができなかった)。ちょうど一冊の本になるほどの長さで、作者が語るのは、もっぱらディテールである。語り手の伯母である裁縫師が仕立てているドレスの様子を、自分の好みの感覚を滲ませながら、だらだらとやる。しかも文体は短編を書いていた頃とあまり変化しておらず、(いかに男性が語り手であろうと)感覚は「乙女」のそれである。金井美恵子の意識には、男性は存在しない。この人は「男が書けない」(笑)。
 YouTubeに、ジュンク堂主催の、朝吹真理子との対談があげられている。そこでは、「物語を語る声」が話題になっている。朝吹も、金井も、物語を語る幾重もの声に関心を持って、創作にもそのようなことを意識して行っているようである。しかし、私には、本書において、そんな声の違いは感じられなかった。あるのは、「かつての文学少女」の趣味的な声のみである。
 また、小説における「声」を問題にするならば、ウンベルト・エーコが『エーコの文学講義』のなかで言っているように、モデル読者もまた想定されねばならない。そうすると、この小説は、いかなるモデル読者が想定されているか。考えるに、作者の感覚を受け入れてくれる人々である。まあ、少数ながら、そういう人たちも存在するのであろう。

 ……ほとんどの男の子はキャラコのハンカチを使っていたし(近所の葬式のお返しに配る習慣があるのだ)キャラコの白い大判のハンカチ──一センチくらいの幅で縁がミシンのドロン・ワークでかがられていて、ちゃんとしたハンカチーフは婦人物紳士物を問わず、縁は手縫いの巻きかがり、たとえミシンにしても巻きかがりでなければいけないのだ、と母親と伯母は口をそろえて言う──以外のハンカチを持っているのは全て女の子だったし、……

 こうした文体は若い頃から、ほとんどクセのように思われる。つまりなんの反省もないまま、何十年も同じことを繰り返している。たまには日本文学の世界にどっぷりと浸りたいと思い、本書を購入したが、見せつけられたのは、「ガラパゴス」となっている日本の現代文学の惨状であった。金井美恵子がシェヘラザードなら、とっくに首を刎ねられてしまったことであろう(笑)。