山下晴代の「積ん読亭日常」

まっとうな本を読んでいく。

オンライン小説「道長通夜」



  あわひ けはひ ひはゐ
  あわわ わはは どはは
  きゅうちゅうに がうたう はひり
  にょぼうたちは まるはだか
  しょうがつにきるきもの ないので
  おかみからあたらしいのたまはった 
  でも あかはきんじき あかはまだだめ
  それは──


 川流れル、女郎花とお見合いと紅葉の茂みを過ぎ、つちみかどどののしきちない、読経と度胸と、一条天皇と一条さゆりと新嘗祭のムシロ内でむしろいい気になって、お供たちは居眠り今はもう秋~♪の寛弘二年、菅官房長官まだ気配なしの左大臣藤原道長の娘にして一条天皇中宮いずれの御時の彰子少子化に抗して妊娠無事実家にて出産あいなるわたくし式部は十人の坊さんたちのお経のリレーを聞きながら船漕ぐ竜宮城なり鯛やヒラメのおつくりなど並べられ一本つけてぐい~っといい気持ちなのら。
 つまりあれですのよ、道長ってほとんど養子みたいなもので実際この邸もわらわのものなのじゃ。と、夫人道長正室藤原紀倫子藤原紀香となんのカンケイもない数え年四十五才はヒラリー・クリントンに対抗するつもりも無理無理のまだ若いおばあちゃん。
 なんかやるせないわ、ローマ皇帝アウグストゥスティベリウス、ガイウス、クラウディウス、ネロ……トラヤスヌス、ハドリアヌス、アントニヌス、マルクス・アウレリウス、ルキウス、コモドゥス、並べてみても「平安時代」が終わるわけでなし、とにかく三百五十年くらいこんな状態が続くなんて絶望×無限大はベン・ケーシー。ケーシー高峰死して久しく夏みかんの肌のこんなことでわ池ない(実際はあるわけだけど)と中沢新一茶色くなった田邊元全集でも開いてみる──。

 田邊「カントからヘーゲルへの哲学的発展は、いふまでもなくフィヒテシェリングを間に挟む」

 式部「まだまだあるでしょ~。フランクリン、ジェファソン、ハミルトン、マディソン、トクヴィル、バーク、マルサス、オウエン、サン・シモン、フーリエ……とか」

 田邊「併し自我の具體化に對する媒介としての非我は、自我の否定契機としてそれ自身の自立性をもたなければならぬことは明である」

 式部「自我? そんなもん、この時代にはおまへんのよ。といってもわたくしの日記は自我のてんこもりですけどぉ~」

 田邊「文化は一般に傳統承受と個性撥揮との綜合として成立する」

 式部「たしか、T.S.エリオットもそんなこと言ってましたわね」

 田邊「これこれ、そこの女人。これはすべての前提ですぞ。だれそれがって、ここは誰でも、まっとうな人間なら共通認識であるぞよ。私は、これから『正法眼蔵の哲学私観』を語るんであって」

 式部「それは、この通夜をすませてからのことね」

 田邊「えつ? どなたの通夜ですか?」

 式部「ふつふつふつ──。それはレキシを見てのおたのしみ」

 「糖尿病」にてお亡くなりになったらしい殿。イヤなパワハラセクハラオトコ。私にあれを書けと命じ、しかも私の部屋に忍び込んで途中を盗み読み。ゆ・る・せ~ん。「平安時代」にはプライバシーの「ぷ」の字もないんです。女房の居室たって、廊下に屋根がついた程度のもんです。寒いんです、冬わ。暑いんです、夏わ。しかも、このへんな装束。シャワーもなけりゃ化粧室もなく、それでも「愛の歌」なんか作らないといけないんです。で、遣り水のやうに安産祈願の僧たちの度胸ながれ秋は来ぬめり。てなてなもんやてなもんや。

(つづく)

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