山下晴代の「積ん読亭日常」

まっとうな本を読んでいく。

『困難な成熟』── 青少年よ! 成熟とは、本書を投げ打つことから始まる!(★★)

(『困難な成熟』(内田樹著、2015年9月、「夜間飛行」刊)

いくら生きるのが苦しくても、こういう本のなかに回答や解決があると思ってはいけない。著者はいまは、「それなりに」売れている著作家で、あなたがたのような無知で、貧しく、「未成熟な」青少年向けにテキトーなことを書いて、「また」稼いでいるのですから。
 私はこの著者には好意を持っておりませんが、しかし偏見も持っておりません。ゆえに、新刊が出ていたので本屋で手に取り、「それなりに」読ませるような内容だったので購入しました。私はもういい年などで、なにか悩んで本書を手に取ったのではありません。プロのお仕事を研究しています。本書は、まあ、「それなりに」(笑)プロのお仕事でしょう。そのため、★を増やしました。
 本書のなのがいけないか。まず、問いの立て方に詭弁があるということです。
 例、「責任を取ることは可能か?」←著者は、「不可能」と答えているが、責任は、可能かどうかという事柄ではなく、「その人のできる範囲で誠意を示す」行為をいうのです。決して、害を加えた相手への、原状回復ではありません。
 第二に、のっけから、フランス語の文法が(相手が知らないと思ってか)テキトー(これはこの著者の特徴ですが(笑))です。
 「困難な成熟」について、レヴィナスの『困難な自由』から取った。これは、よいが、その際の説明で、普通フランス語は、形容詞が語尾につくが、「名詞のうちにすでに本性として含まれる性質を現す時」は、その語の前につく。←これは、テキトーです。仏文法書として、最も権威ある、朝倉季雄『新フランス文法事典』によれば、形容詞+名詞の結びつきは、「古仏語ではこの語順が普通であったから、その名残を留める」ものなのです。(135p)
 そして、第一の、詭弁ですが、問いのたてかたもそうですが、第三として、論理展開も詭弁というかごまかしがあります。レヴィナスの著書を仏語で、「Difficile Liberte」といい、本来自由とは、難しい(difficile)が「本性として含まれる」ので、この語順なのだ。そういう説明で、自著の題名「困難な成熟」は、その意味だと書いていますが、一度も仏語では書いていません。本書は仏訳書ではなく、日本語なので、どうういう意味合いだろうと、「成熟困難な」とはなりようがないのです。ちょっと頭を使えば、破綻している論理展開はどこにも見受けられます。
 だいたい本書の「口調」「論理展開」は、本書でも言及されている、橋本治そっくり(笑)です。かなり影響を受けているのでしょう。私も昔は影響を受けていたので、すぐわかります。
 最後に、「ある高名なフランス文学者が僕の悪口を延々と書き連ねたエッセイが載った雑誌」うんぬんで、その背景を勝手にさぐって、「僕の本をけっこうたくさん出している出版社だから、その文学者が、『ウチダってやつがけしからん』とぽろっともらし、それをとらえた編集者が、『先生それで一本書いてください」と頼んだのではないか」と書いてますが、この箇所は、私は読みました。かなり昔のことです。まだ、著者が、大学の教員で、ブログで活躍していた頃です。その「高名なフランス文学者」とは、蓮實重彦氏で、氏は、内田という個人名をあげず、「どこぞのブロガー氏」と書いてました(笑)。いくら批判とはいえ、高名な人に書かれて、自慢だったのでしょう(笑)。
 まあ、これほど胡散クサイ著者ではありますが、いま、同じ胡散クサイ、高橋源一郎氏なんかと組んでしまってますから、まだしばらくは、この出版界の「論客」として、お稼ぎになるのではないでせうか?
 ときに、青少年のみなさん。確かに、成熟は困難なものです。第一この著者が成熟してません(笑)。まずは、本書のようなものは投げ打ち、手探りで生きるしかないのです。そうした苦しみこそ、きっと成熟に結びつくことでしょう。