山下晴代の「積ん読亭日常」

まっとうな本を読んでいく。

『愛されたもの』──ウォーの本質を伝え得ない、残念な訳

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『愛されたもの』(イーヴリン・ウォー著、中村健二+出淵博訳、2013年3月刊、岩波文庫

 E・ウィルソンが、「イーヴリン・ウォー論」(『筑摩世界文学大系 79』(1971年刊)「ウォー/グリーン」所収)の中で看破しているように、ウォーの持ち味は、その傍若無人たるところにあるが、『Loved One』(本書『愛されたもの』原書)は、その傍若無人さが思う存分発揮された作品である。Loved Oneとは、故人のことであり、遺体を指すのだから、光文社文庫から出ている『ご遺体』という同書異名の本の題名も、あながち見当外れなわけではない。むしろ、本書のように、「愛されたもの」と直訳してしまうと、ウォーのこれでもかというほどの、ブラックユーモアから離れてしまう。『ご遺体』は見ていないが、私が推す訳は、やや古い版ではあるが、吉田誠一訳の、『囁きの霊園』(「ブラック・ユーモア選集」第2巻、早川書房、1970年刊)である。
 この吉田誠一訳こそ、縦横に文学作品を引用しつつ、教養主義や文化人、死にまつわるタブーを、完膚無きまでに笑いのめすウォーの文体をよく写している。なにより、岩波文庫の『愛されたもの』(本書)の訳者が陥っている、おずおずと気むずかしい作家を扱う「英文学」の手つきから自由になっているエンターテインメントしている文章がすばらしい。これでこそ、原書の、Loved One(吉田は「ほとけさま」と訳している)という言葉も生きてくるし、ヒロインの、Aime??(フランス語で、やはり、「愛されたもの」)の名前を、英語の発音ではあるが、「エイメ」としているのも生きてくる。岩波版は、エイミーと、アメリカではありふれた名前となっている(欄外の注には、名前の由来等は説明してあるが)。

 本作は、痛烈な風刺小説を書いていたウォーが、『ブライズヘッドふたたび』(1945年)で感傷的な作風の変化したと言われたのち、ベストセラーとなった『ブライズヘッド』の映画化のため、ハリウッドを訪れ、郊外の大墓地を見て着想されたものである(1948年発表)。ウォーにとって、「作風」などいかほどのものか。保守党を名乗り、ローマカトリックではあっても、それは「作風」を限定しはしない。書き手としてのウォーのスタイルは、「そこまでやるか」──これに尽きている。まったく21世紀でも、いや、今こそ、読まれてしかるべき作家であり、この時代こそ、ウォーの「傍若無人」が、理解されうる時なのだと思うと、お上品な本訳は、まったくもって残念である。