山下晴代の「積ん読亭日常」

まっとうな本を読んでいく。

【詩】「フーコー最後の問い」

フーコー最後の問い」

1984年に死んだ、ミシェル・フーコー
198210月にアメリカのヴァーモント州のヴァーリントンに3週間滞在し
ヴァーモント大学でテーマを掲げ、学生や教授たちと研究を共有した、そのテーマに関する講義が、彼の、まさに人生における
最後の講義となった。それは、すでに性の問題からは抜けだし、

われわれの時代における自己とは?
Que sommes-nous en ce temps qui est le notre?

という問いに行き着いていた。これは十八世紀後半から起こっていることであり、カントはテクストのなかに明確に書いているという。
それは、まさに、われわれの時代まで
続いている。この
ネットの時代こそ
さらに浮かび上がる問いだ。つまり、
瞬時に移り変わっていく
状況において、
自己はどのように構成されているか?
あなたの
ふとした
ひらめき
よくぼう
うちけし
さらに芽生える
よくぼう
それは、色濃いものではなく
さりとてかき消えてしまうものでもなく
兵士たちの
ギロチン台の
パンの
シベリアの凍土の
海中のネットのケーブルの束の
スパイの
共和国の
クーデターの
発覚の
破れたシャツの
独房を生き抜いた男の
荒海の
イメージの
硬直した死体の
墓の
こころの
分離の
数式の
叫びの
民族の
知識の
無知の領域の
あなた
は、どんな本を読み、いかなる表現を
夢見ているのか?
あなたを構成しているものはなにか?
書いたものの
集積
からも分析される
あなた

そんな問い

je donnerais volontiers l'appellation d'ontologie formelle de la verite.
真理の形式存在論とでも呼んでおきたい問い。

そして私は、
この詩をもって、この詩集を閉じようと思います。


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