山下晴代の「積ん読亭日常」

まっとうな本を読んでいく。

【詩】「花びらとしての物語」

「花びらとしての物語」

クロード・シモン『アカシア』のページを開けば、T.S.エリオットの『四つの四重奏曲』からの詩篇が引いてある、
現在も過去も未来のなかに現前し、
未来は過去のなかに含まれるという意味の行
そして目次は、12章をローマ数字で示し、Ⅰ 一九一九年 とか、ⅩⅡ 一九四〇年 とかある。その間、年代は一九八〇年になったり
一八八〇年になったりする。
「彼女たち」の描写。
「彼女たち」が誰なのか、わからない。
ただただ描写されるだけで、いっこうに、ストーリーは
わからない。あきらかに、蓮實重金井美恵子はこの作家の
エピゴーネンであることはわかるが、それ以上、この作家が
なにを描こうとしているのか、わからない。これは、
大いなる、長い長い夢のような詩なのではないだろうか。このような小説を書く作家は、日本では、金井美恵子や蓮實重しかいないような気がするが、どうだろうか。小島信夫も違う。小島はむしろできごとを延々と書くだろう。ここではできごとさえないのだ。ヌーボーロマンなるものが一時はやったが、あれとほぼ同じで、あ、もしかしたら、シモンは、ヌーボーロマンの代表者だったかもしれない。ナタリー・サロートとか、同じような書き方をする。そう、映画的なエクリチュールでもある。ただ映像を流している。その際、黒い服とかレースとか、女の肉体が示されるが、まだ事態は知らされない。
ヴェール、キャフェ、オムレツ……
父の車に乗り「遠州」に行ったとき、まず、
熊切というところ停まり、生け垣の向こうから
「キヨコ姉」が出てきたときのようだ、
パーマネントで、ちゃんとした服装をして、
「そこで」働いているといった。
「キヨコ姉」は笑い、手を振って、
車が遠ざかるのを見ていた。
あれから時間が過ぎ、ギリシア悲劇のように
「キヨコ姉」は目が見えなくなり、夫からも疎まれ、
兄である、私の父は死体になった。
「足を拭いてあげてください」納棺師の女性に言われ
足を拭いた。爪が伸びていた。
色のない固まった足。もし、生きた時間があるなら、
それは、白く香る
アカシア
決して
物語は
知ることができない。


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