山下晴代の「積ん読亭日常」

まっとうな本を読んでいく。

【詩】「アテネ」

アテネ

おとうさま、あなたが病に対してパロールを拒んだ時から、死すべき者たちは苦しまねばならなくなりました。
わたくしは、そのものたちのエスを癒すため、ニューヨークという大都会で、春をひさぐ仕事を始めました。

アテネ、ゼウスの娘。
ゼウスの毒の
解毒剤
エス、人間の核
これを失えば、
死。
フロイトを読まないものには、
知はないも同然、
トライベッカの
殺人。

エース。花びらのように
舞って、見せる
裏側。
ラカンの正式な
弟子でもないものが
著作の紹介は
絶望的な
企て。

鏡像、男根、アリストテレス
無意識、他者、ハイデッガー

にーんげんなんて
いちじの逃避

というわけでおとうさま、わたくしが
オリンポスに帰るのは
3000年後でございます。
それは、ゼミナールの終わり
分析、対決、研究。

オリンポスの神々の仮面には
以下のことが刻まれている。

「無意識は一つのランガージュのように構成されている」
「無意識とは他者のディスクールである」

Le stade du miroir comme formateur de la fonction du Je

 telle qu'elle nous est revelee dans l'experience psychanalytique*

絹の靴下は、私をだめにする~♪



* Jacques Lacan "Ecrits "(Points)小題P89より)


【昔のレビューをもう一度】 『愛を読むひと』(2008年)の監督作。『トラッシュ!』(2014年)

【昔のレビューをもう一度】
愛を読むひと』(2008年)の監督作。『トラッシュ!』(2014年)
(FBでの会話↓)
細田傳造>ナチス時代のベルリンの街角から始まるアメリカ映画『愛を読む女』
山下晴代師に於かれましては?小生は印象が深うございました。

山下晴代> 愛を読むひと』は、監督はじめ、主演のケイト・ウィンスレット、少年が中年になった「現在」(ナレーター)のレイフ・ファインズなどがイギリス俳優の、イギリス人の視点からの「ナチス・ドイツ」ということになりましょうか。21歳年下の少年(15歳)との恋。まさに私の理想ですが、この物語のキーワードは、「文盲」。のち、ナチス戦犯裁判で、罪を問われた女と、それを傍聴する、法学生となった少年、彼女が、「文盲」であったことを「告白」すれば、彼女の罪は晴れる……と、そんな設定だったかと。愛か、命(死刑)か。ここにも、ドイツ人の視点はありませんですたね。同じダルドリー監督のべつの映画のレビューもあげておきます。

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『トラッシュ! -この街が輝く日まで』── 少年たちが主役の極上のミステリー少年たちが主役の極上のミステリー(2015年1月12日 8時17分)
『トラッシュ! -この街が輝く日まで』(スティーヴン・ダルドリー監督、2014年、原題『 TRASH 』

ブラジルという問題を抱えた国の、底辺に生きる少年たちの世界に材を取りながら、おとなの鑑賞に耐える極上のミステリーとなっている。伏線もすばらしく、登場人物たちの、いわゆる「キャラだち」もきめ細かく、なにより、少年たちが自力で事件を解決していくストーリーにも、これまでのストリート・チルドレンものにはない、すがすがしさがある。
 少年たちはオーディションで選ばれた無名の少年たちであるということだが、同じような選考方法でキャストを選んだ、7人のオバチャンの物語『滝を見に行く』の学芸会ぶりとはえらい違いの、目を惹きつける演技である。少年たちの才能もあるだろうが、彼らにのびのび演技させている監督の演出力もものを言っている。
 名前のある俳優として、神父役のマーチン・シーンと、ボランティアで勉強を教えるアメリカ人女性役の、ルーニー・マーラの、どちらも、少年たちを引き立たせかつ包み込みような演技でプロらしさを見せている。ブラジルという国のゴミの街のエネルギーをフットワークのよいカメラワークで見せつけ、音楽もさりげなく最新の洗練をあてている。テーマ、美学、エンターテインメント、そのどれをとっても「2015年」を感じさせる、年頭いきなり、ナンバーワンの映画である。ブラジルという問題を抱えた国の、底辺に生きる少年たちの世界に材を取りながら、おとなの鑑賞に耐える極上のミステリーとなっている。伏線もすばらしく、登場人物たちの、いわゆる「キャラだち」もきめ細かく、なにより、少年たちが自力で事件を解決していくストーリーにも、これまでのストリート・チルドレンものにはない、すがすがしさがある。
 少年たちはオーディションで選ばれた無名の少年たちであるということだが、同じような選考方法でキャストを選んだ、7人のオバチャンの物語『滝を見に行く』の学芸会ぶりとはえらい違いの、目を惹きつける演技である。少年たちの才能もあるだろうが、彼らにのびのび演技させている監督の演出力もものを言っている。
 名前のある俳優として、神父役のマーチン・シーンと、ボランティアで勉強を教えるアメリカ人女性役の、ルーニー・マーラの、どちらも、少年たちを引き立たせかつ包み込みような演技でプロらしさを見せている。ブラジルという国のゴミの街のエネルギーをフットワークのよいカメラワークで見せつけ、音楽もさりげなく最新の洗練をあてている。テーマ、美学、エンターテインメント、そのどれをとっても「2015年」を感じさせる、年頭いきなり、ナンバーワンの映画である。ブラジルという問題を抱えた国の、底辺に生きる少年たちの世界に材を取りながら、おとなの鑑賞に耐える極上のミステリーとなっている。伏線もすばらしく、登場人物たちの、いわゆる「キャラだち」もきめ細かく、なにより、少年たちが自力で事件を解決していくストーリーにも、これまでのストリート・チルドレンものにはない、すがすがしさがある。
 少年たちはオーディションで選ばれた無名の少年たちであるということだが、同じような選考方法でキャストを選んだ、7人のオバチャンの物語『滝を見に行く』の学芸会ぶりとはえらい違いの、目を惹きつける演技である。少年たちの才能もあるだろうが、彼らにのびのび演技させている監督の演出力もものを言っている。
 名前のある俳優として、神父役のマーチン・シーンと、ボランティアで勉強を教えるアメリカ人女性役の、ルーニー・マーラの、どちらも、少年たちを引き立たせかつ包み込みような演技でプロらしさを見せている。ブラジルという国のゴミの街のエネルギーをフットワークのよいカメラワークで見せつけ、音楽もさりげなく最新の洗練をあてている。テーマ、美学、エンターテインメント、そのどれをとっても「2015年」を感じさせる、年頭いきなり、ナンバーワンの映画である。


【昔のレビューをもう一度】『ドイツ零年』(ロベルト・ロッセリーニ監督)(DVD)

『ドイツ零年』(ロベルト・ロッセリーニ監督)(DVD)

 1947年、廃虚のベルリン。墓掘りの仕事をしている少年は、いくつだ?と聞かれ、15歳と答えたが、どう見てもそうは見えない。実際は12歳で、「仕事泥棒」と言われそこを追い出される。逃げる途中で、道路に馬が死んで倒れているところに人だかりがしているのを見かけ、近寄るが、大人たちに追い払われる。群衆の一人は馬の首あたりにナイフを入れ肉を切り取ろうとする。少年が「家」(崩れたビルの一角)に帰ると、大家が各家庭の電気使用量を見て、少年の家に「超過している」と告げる。その電気さえ違法で取っているものだ。少年の家では、最もちゃんとした働き手になりそうな兄は、ナチスの兵士だったので、隠れていて、市民としての正当な登録を怠っているので、配給も受けられない。毎日家の中でごろごろしている。姉はガイジンバーで、娼婦まではいかないが、「お相手ガール」として、煙草などのプレゼントをあてにして「働いて」いる。父は悪い病気に冒され咳がひどい。
 少年は小学校元教師と出会うが、彼もナチスの兵士で教職を追われ、ヒトラーの演説レコードを売る闇商売をしていて、少年に手伝わせる。その教師の少年を触る手つきや、教師が出入りしている「館」も、なにやら、「少年愛」の館を暗示させる。
 少年エドムントは、エドムント・メシュケが演じており、おそらく素人の少年なのだろう。その無表情がかえってリアルを感じさせる。
 なにもかもが、少年が生き抜くには難しい世界。彼は、元教師が、「病気で足手まといの父親は死んだ方がいいのだ」という言葉を真に受け、父親に毒入り紅茶を飲ませて殺害する。「先生の言ったとおり、父を殺しました」と元教師に言うと、「そんなことなど言ってない!」と驚く。
 混乱して街をさまよったのち、崩れかけたビルに入り、上から父の葬儀の様子を眺める。そのとき、彼は上着を脱いで、そこから飛び降りる。背中を向けたまま地面に叩きつけられる少年の細い肉体。女性が驚いて走り寄り、少年を抱き起こし、カメラは少年の顔の右半分の一部を映し出す。その顔は変化していないが、少年が死んだことは観客に確実に伝わる──。

 ドキュメンタリー・タッチとかネオ・レアリスモなどと言われるが、本作の奇妙な点は、ベルリン市民が、すべてイタリア語をしゃべっているところであり、主役の少年も名前からしてドイツ系と思われるのに、流暢なイタリア語をしゃべっているのである。ここになにか、意味のある意図的な「ねじれ」が込められているのかもしれない。また、そのイタリア語が印象的なのである。


【アート】「クリムト展_ウィーンと日本1900@豊田市美術館」(2019/8/16)


クリムト展_ウィーンと日本1900@豊田市美術館

 グスタフ・クリムトの生涯と、家族、友人などの、作品と写真、グッズで構成された、クリムトのすべてといっていい展覧会。

 工芸学校で修行したクリムトは、絵の道具を扱う手法は確かであり、装飾から出発して、そこを出ることなく、とことん装飾を極め、どこまでも装飾であり続けた。
 結局のところ、芸術の自由さにまで到達できていたかどうかは疑問である。常に陰鬱さがつきまとい、それがこの画家の絵の絵葉書などを、自宅に飾ることを躊躇させる。

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【ニュース】『NHK特ダネ? 昭和天皇「拝謁記」』考

NHK特ダネ? 昭和天皇「拝謁記」』考

 盆休み、実家でふだんは見ないテレビを見ていると、NHK「新資料発見!昭和天皇の秘められた事実!」などと銘打ち、何度も自慢げに「宣伝」している。小分けに放送しているようだが、なんでも初代宮内庁長官田島道治氏の家族が秘していた記録、田島氏と昭和天皇との「対話」を、田島氏が記録したものが発見され、それは、『宮内庁実録』には記されていないものが九割だという。
 その中で、昭和天皇は、太平洋戦争の発端となる、張作霖事件への「反省」、軍部の暴走を止められなかった「反省」、国土と人民の命を縮小してしまったことの「反省」などを述べ、昭和26年の時点で、この「反省」を全国民に伝えたいと思っていたことが明らかになったという。
 ここには、軍部が政府を呑んでいく事実(これを「下克上」と表現しているところが、それだけで、昭和天皇の内面もわかろうものだが(笑))が、現実の事実と重なってはいるものの、それほど大騒ぎするものかとも思われる。第一、東京書籍発行の『宮内庁実録』(高橋源一郎は「ヒロヒト」という小説(『新潮』に連載されたが、「その後」、どうなったか、わからない(笑))の資料に使ったものの、Amazonでは全然売れてない(笑))というものは、ものものしい響きながら、公の日録で、昭和天皇の「心」のなかにまでは踏み込んでいない。それに記されていない「事実」が九割として、「後悔」や「反省」を、昭和天皇の「人間像」として持ち出すのもどうであろうか。
 また昭和26年に、国民への言葉のなかで、この戦争への「反省」の部分を、当時の首相吉田茂に、「いまさら戦争のことを言ってもしょうがないから、削除した方がいい」と言われて、また、田島氏も削除に賛成したとして、結局削除したとか。この「資料」はこれから学者などによって分析させるのだろうが、そのなかには、『昭和天皇』著者の、吉田裕氏も含まれているのだが。さあ、どうですかね。


【詩】「惑星の名前できみを呼ぼう」

「惑星の名前できみを呼ぼう」

今では
雨が降っても
簑を着るひとはいない。
湿った藁の感触を
思い出すひとはいない。
宇宙最速の
光さえも出られない
かすかに
きみの寝息が聞こえる
きみの出自
きみの記憶
きみの知識
きみの教養
のなかに、
湿った藁はあって
きみは私あてに
手紙ではなく
ひとを介して伝言する
その男に、きみはこういうはずだ
伝えてくれ彼女に
その男は苦笑いもせず
小さくうなずく
帰ったら
そう妻に伝えるよ
湿った藁を共有する私たち
愛なんて湿った……
湿った?
私は人混みを歩きながら
きみの寝息を思い出している
光さえも出られない?
けれどぼくたちの
愛は出られる
激しく泣く代わりに
惑星の名前できみを呼ぼう

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【DVD】『ラ・ジュテ 』──本作を見たらゴダールはオワコン(★★★★★)

ラ・ジュテ』(  クリス・マルケル監督、1962年、原題『LA JETEE』)

 ドキュメンタリーでありながら、想像力を刺激された『ベトナムから遠く離れて』を、確か渋谷の映画館のなにかの特集で見て以来、このクリス・マルケル監督の、『ラ・ジュテ』(1962年)が見たくなり、DVDを購入して、しばらくおいてあった。見る機会を逸していたのだが、今こそ、その時と思い、帰省につれてきて、いま見終わったばかりである。Yahoo!レビューの「最新」は、去年の夏である。しかし、いま、2019年8月に見るにふさわしい内容であった。
 本作は、静止画、スチール写真のみで成り立っているが、一瞬だけ動く場面がある。それは、主人公の記憶のなかの女性の目覚めた時の瞬きである。
 スチール写真は、一枚一場面といっていい。簡単なカットではない。かなり手が込んでいる。第三次世界大戦後の、廃虚のパリ。人々は地下でしか生活できない。まさに、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の実験が行われる。知的想像力を持っている者が選ばれ、時間旅行をさせる注射をされる──。
 示唆的な語り。彼の記憶。記憶の剥奪。記憶の中の女。最後に、題名の、ラ・ジュテ、La jet?e、飛行場の見送り台、で、その女を探す。見つける、女に走り寄ろうとする、そして、倒れる。それはその男の死の瞬間であった。そう、死ぬ時には、人生のすべてを思い出すと言われるが、それが、第三次世界大戦後なので、奇妙な人生、というより、時間を辿る。その中で、男は女に出会い、剥製動物の博物館などに行く。それらのセットがすべて精細に作られている。非凡なカットの数々。SF的想像力の奥深さ。テリー・ギリアム12モンキーズ』は、本作がもとになっているという。
 ゴダールの未来都市を描いた、『アルファヴィル』は、どうしようもない紋切り型、駄作であった。しかし、本作は、今見ても、少しも古さを感じさせない斬新な映像と、語りと、哲学に満ちている。おそらくゴダールアラン・レネなどは、本作をパクッのだろう。それを許すかのように、『ベトナムから遠く離れて』では、ゴダールルルーシュの映像を「編集」して、ひとつの作品に創り上げている。
 われわれは、「第三次世界大戦」を「思い出す」べきであろう。そして、「夢さえ警察に監視される」事態から逃れるには、どうしたらいいか、考えるべきであろう。おそらくは、空港の見送り台で、一人の女(あるいは男)を探すこと。

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