山下晴代の「積ん読亭日常」

まっとうな本を読んでいく。

【詩】「カラスが蝉を喰っている」

「カラスが蝉を喰っている」

マンションの庭の林立する木立に、蝉が鳴き始めて久しい。じーじーじーと途切れなく続いているのだが、それが「ジジッ」と途切れるときがある。一度見たことがあるが、カラスが蝉を、パクッとやっているのである。蝉は喰われる寸前でも、「ジジッ」と「声」を出す。油蝉の唐揚げ、などというイメージを思い浮かべる。いまは、ニイニイ、アブラ、クマ蝉、秋に入ると、ヒグラシになる。どんな味なのだろうか? 自然は残酷だな──。
ときに、松尾桃青こと、はせを、こと、若き日の芭蕉の主人にして「恋人」の俳号には、蝉がついていたような……

そんなことも思い出した

夏のある日だ

アシモフ曰く、

永遠は終わる

宇宙は裏返り、満たされる

エントロピー

油。


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今日の引用

【今日の引用】

「人生観などというものも昨今ではイデオロギーの類に堕しているのであって、このイデオロギーはすでにその名に値する生など存在しないのに、その点について人を欺いているのである。」(テオドール・W・アドルノ『ミニマ・モラリア』三光長治訳、法政大学出版局

Der Blick aufs Lieben ist ?bergegangen in die Ideologie, die dar?ber bet?rgt, da? es Keines mehr gibt.Adorno "Minima Moralia" Suhrkamp


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【エッセイ】「年々バカが増えていることを愁えるこの記念日」

「年々バカが増えていることを愁えるこの記念日」

どこかのバカが某有名人の文章の、「無断シェア」ではなく、「無断引用」をしていた。なんでも、広島原爆は、アメリカの戦争犯罪だとか。この文章には、戦争犯罪なる言葉の意味をはき違え、かつ事実誤認もはなはだしいものが含まれている。
第一、戦争にはルールがあって、この場合、被爆国は、それを避ける術があった。それは、戦争の終結かつ、全面降伏である。これをする権限は、当時の昭和天皇にあったことは、吉田裕著『昭和天皇』に述べられている。日本が原爆をも含む、被害に遭うことは、予想できた。しかし、「あえて」それをしなかったのは、昭和天皇が、臣民は自分のために死んで当然という、「帝王教育」を受けていたからだ。ただ、それだけのことである。ゆえに、戦争犯罪にあたるのは、昭和天皇ということになる。
そういうことも想像できないバカが、ただ有名人と表面的につながって、自分がごたいそうな存在であると思い込んでいる、SNSの「お友だち」という「フィクション」を愁えるばかりである。

【本】The Portable Hannah Arendt(Edited with an Introduction by Peter Baehr)Penguin Books 2000)

The Portable Hannah Arendt(Edited with an Introduction by Peter Baehr)Penguin Books 2000)

ハンナ・アーレント・ハンドブック」
本書は2013年11月、ロンドン一大きな書店、Foylesで購入。この書店は、各本棚に書店員の手書きのレビューが付けられていて、買う気をそそる。丸谷才一の『ロンドンで本を読む』をマネしたのである(笑)が、なぜか、このたびのわが国の参院選結果から、アーレントの、「悪の凡庸さ」を思い出したのである。
本書は、「アーレント入門書」とでも言ったらいいだろうか、彼女の著作(レポートを含む)の抜粋が、7章に分けられている。それぞれの章にはタイトルが付いて、映画『ハンナ・アーレント』にもなった、元ナチのSSのアイヒマン裁判の傍聴記で、ニューヨーカー誌依頼のレポートの抜粋が載っている第5章は、
「Banality and Conscience : The Eichmann Trial and its Implications」(凡庸さと良心 :アイヒマン裁判とその影響)というタイトルになっている。
問題のレポートのタイトルは、Eichmann in Jerusalem である。5回ほどの傍聴記の抜粋である。
はじめ、アイヒマンは、党のリーダーを警護するガードマンのつもりで応募し、それがやがて、ユダヤ系のメディアなどの情報をファイルする仕事に、そして警察と統合され、秘密警察になっていく。組織が改編され、党員さえも監視する組織となる。
それらを具体的に順を追って記している。そこにはどこにも、はっきりとした「悪」はないかのように見える──。
こうした状況が、いまの自民党から思い浮かんだのである。
映画も2013年あたりに見ているが、ただただ、煙草を吸い続けるアーレント(バーバラ・スコヴァ)が印象強く、不屈の闘志も感じられたが、「悪の凡庸さ」を、説得力のあるように、描き切れていたかどうかはわからない。ブログの履歴を調べたが、この映画については、レビューを書いていない。

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『シンク・オア・スイム イチかバチか俺たちの夢』──本年上半期ベスト1(★★★★★)

『シンク・オア・スイム イチかバチか俺たちの夢』(ジル・ルルーシュ監督、 2018年、原題『LE GRAND BAIN/SINK OR SWIM』)

 わが国では、憲法論議が喧しいが、民法が整っている国こそ文明国であると、民法の本で読んだことがある。考えてみれば、民法などない国も多々ある。つまりは、人間の生活の保証が整っていない。この映画を見て、フランスの底力、いみじくも本作のストーリーで、「基底がないなんて考えられん!」と、「二代目」の女コーチが言う。シンクロといっても、ここでは、アーティスティック・スイミングという名前に変えられていて、おそらく、ホンモノのシンクロナイズド・スイミングとは少しばかり違うのだろう。こういう競技が実際のあるのかどうか知らないが、ちょっと見たところ、シンクロにそっくりである。そこをどこからも文句のでないように変えてあるのも、フランスの智恵だろう。本作は随所にそんな智恵やセンスや意地や、論理が出てきて、それはがすべて物語のおもしろさに回収される。ひとつとして無駄なシーンやエピソードはない。
 わが国の政府の統計によれば、近年の、50代から60代の引きこもりは、60万人を数える。おそろしい数字である。本作の主人公もウツを患い、医者にかかるかからないにかかわらずウツ的人々が、このグループに大勢いて、あろうことか厳しい女コーチもアルコール依存症のグループセラピーに出ている。このコーチがキーパーソンになり、かつてはシンクロの世界的レベルの選手であったが、パートナーの交通事故のため、人生の夢をあきらめ、しがない公営プールでオジサンたちのコーチをしている。そしてこの女コーチのもとに、がんばっていくのかな?と思いきや、その女は、男にストーカーしていたかどで男に告発され、完全に脱落する──。
 そこへ、第二のコーチが現れる。彼女は、第一のコーチのパートナーで、今は車椅子で、やはり公営プールのコーチをやっていたのか? とにかく、その女が現れ、前のコーチ以上に、オジサンたちをしごきぬく。その過程において、おちこぼれのオジサンたちが、スポーツ選手としての自覚に目覚め、磨かれていく──。
 そして、世界大会。そこはもう、優勝することはわかっている。ライバルを先に出す。彼らは、おもに「カイパン」(=海水パンツ)の尻部分のデザインでお国を現している、素っ気ない幾何学模様風のドイツ、いかにもハデなイタリア、和風柄の日本……などなど。それぞれによい点数が出る。さて、フランスチーム、どんなカイパンデザインなのか? やはりトリコロールかな?と思いきや、シックな黒一色。さすがフランス。そして、曲は、メンバーの負け犬バンドオジサン作曲のヘビメタ? そこのところはよくわからないが、とにかく「スイミングの踊り」が、前衛的なのはわかった。プール(原題の大プール(グランバン(LE GRAND BAIN))の周囲に詰めた観衆がどよめく、スタンディング・オーベーション(笑)まで。しかしよく考えてみれば、それは、たかが、プールの周囲の観衆にすぎなかった。「無事」優勝を果たし、自己実現の自信に酔うオジサンたちの帰りのバン(負け犬バンドオジサンのぼろい車だ)。夕景にさしかかると、主演のベルトラン(アマリック)が停めろと言う。みんなぞろぞろ降りて、夕陽に叫ぶ青春映画。それぞれ、小さな幸せを手に入れる。主演のマシュー・アマリックの語り、「どうせ幻にすぎないことはわかっていたとしても……」なにかをやりとげた。
 自分勝手な人々が自己を抑えて勝利に挑むのではなく、自分勝手なまま、自分勝手な相手を受け容れることによって、さらにパワーアップしていく。言いたいことを言っているうちに、「公共」を築き上げる。これこそ、フランスの底力と見た。喝采。アマリックという俳優は、「巻き込まれ方」の、フランス人では珍しく、かつての名女優森光子のように、主演であっても引いた演技ができる。しかしそれもまた、フランス的だとも言える。なにか政府を告発したかのような抽象的な映画を作って悦に入っている日本とは、どだい「基底(ベース)」が違う。


『マーウェン』──バック・トゥ・ザ・フューチャー with 人形(★★★★★)

『マーウェン』(ロバート・ゼメキス監督、 2018年、原作『WELCOME TO MARWEN』)

 よくできている映画なのだが、大ヒットははなから難しい映画でもある。なんせ、大半は「人形」が「演技」している。状況設定も複雑である。事実をもとにしているが、事実でもなければ、こんな入り組んだストーリーは不可能だろう。
 第二次世界大戦中に、ベルギーだかのある村で、ナチの五人組に襲われたアメリカ人の大尉が、拷問されて体も心も壊れてしまった。記憶も壊れ、アルバムを見て、結婚していたらしいこと、優秀なイラストレーターらしいことがわかる。自分の名前を書くのがやっとの手では、イラストレーターに戻ることは不可能である。そこで、フィギュアを使って、過去のできごとを再現し、それをカメラに収めることを思いつく。そして、個展なども開き、カメラマンとして成功する。しかし──。
 村を再現し、実在の人物を人形たちで置き換えていくうち、かつての悪夢が蘇り、現実と幻想と夢が入り混じる。PTSDは治らないどころか、悪化するような感もある。拷問したナチどもを断罪する裁判の証人になることを求められているが、それも出席できるかどうかわからないほど、精神は傷を露呈し、本人は悩みを深くする。しかし──。
 それは、周囲のやさしい女たち、ことに、フュギュア店の店員、隣りに引っ越して来た女性によって癒されていく。そのほか、ボランティアのヘルパー、リハビリ師、すべて女性であるが、彼女たちをすべて人形に置き換え、過去の場面を再現し、それを写真に撮る。家には、PTSDの化身ともいうべき魔女が時計のなかにいて、彼の悪夢を司る。
 かつてのNHKの「ブー・フー・ウー」(って古すぎるか(笑))のように、実際の演技は着ぐるみ(本作では、特殊メイクした俳優)がして、いざ「箱にしまう時」は、ほんものの人形になる。それにしても、フィギュア店には、将軍の勲章や武器など、実際のものでないものはないぐらい置かれている。こういうデティールがすごい。しかし、いずれ、デティールに回収されていって、映画の規模も縮小されていくかのようだ。そこんとこが、難しい。カメレオン俳優、スティーブ・カレルの独壇場もってしなければ、リアルな人間ドラマに観客を引きずり込めないかもしれない。しかし──。
 これは、ゼメキスお得意の、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」であり、「未来に戻ること」によって、PTSDは克服されていくかのようである。その際の「道具」は、デロリアン号ではなく、お人形たちである。おセンチで古くさい音楽がちょっと興ざめではあった。がしかし、時代の表現としてはいたしかたないか。題名の「マーウェン」とは、二人の人間の名前をくっつけて作った、架空の村の名前である。


【日本の短編を読む】高見順「或るリベラリスト」

【日本の短編を読む】高見順「或るリベラリスト」(『文藝春秋』昭和26年5月号)(四百字詰め約90枚)

 蓮實重彥は『物語批判序説』で、物語=紋切り型を批判したが、それは物語のきれいな型に収まっているものを、小説とはしないという考え方だった。そして、文芸作品というものは、芭蕉俳諧(俳句は、正岡子規以降)も、時代背景抜きには味わうことはできないと説いたのは、小西甚一である。そのように、小説も、時代背景を無視して、勝手な「物語」をそこに見いだしても意味がない。
 本作も、昭和26年の時代と、きっかり切り結んでいるものであり、そこには、当時の知識人たちの、味気ないほどリアルな生活が、見落としがちな心理や状況をすくい取って、それなりのストーリーを展開していく。
 ここでは、人々は、職についているかどうかはあまり気にしていない。現在なら、介護の問題がどの家庭にも重い問題となってのしかかってきているが、ここでは、なんと、赤の他人を引き取って、介護しているのである。それがとくべつ、褒められることでも、また、その他人をよそへ渡すことにも、罪悪感を持って描かれている。
 いまでいう、知識人ゴロのような老人(といっても60代)をめぐって、作家や学者が、友情などに、ひびを入れられたりするが、その老知識人を見放せずにいる。その老知識人は、いまでいうなら、現代思想家の若者みたいにけろりとしていて、厚かましく、ひとが病気で寝ていても、平気で訪ねてきて、おしゃべりしていくような人間である。この頃の人間は生真面目で、そう簡単に図々しい人間さえ、身捨てるという選択肢は思いつかない。
 文体は、秀島という、視点人物を据えて語られるが、かなりリアルではあるものの、私小説というわけではない。それが証拠に、最後には、ロシア文学の「余計者」へと「昇華」させていく。文体はリアリズムで無理のない言葉運びながら、「技巧」をまったく目立たせないほど技巧的である。
 結局、おしゃべりなリベラリストの奥村老人を、みんなして養老院へ送っていくのだが、そこはもう二度と出られぬ牢獄のようにも感じられる。最終数行、

 秀島の眼にこの老リベラリストが、今ほど悲惨に、だからまた今ほど立派に見えたことは嘗てなかった。悲惨であることによってその姿は光栄と権威に輝いていた。
 奥村氏はまだおしゃべりをやめない。秀島はそっと目頭に手を当てた。