山下晴代の「積ん読亭日常」

まっとうな本を読んでいく。

【詩】「記憶」

「記憶」

記憶の中の豊橋駅は、
脳の右側でしか再現されずそれは
古代都市のような階段を持ち床はいつも
水で濡れている
階段の右側はガラスのウィンドウがあってそこに
人形が縦横に置かれて
上っていく者を見つめている
痰ツボをはじめて知った
さらに右へ行くと
ソフトクリームの店があって
父母はニューファミリーのはしりだったので子を連れて
食べにいった丸いスツールに上って食べたソフトクリームは
ステンレスのスタンドに気取って載せられ
すぐに溶けてしまうのだったこの都市に生まれたのは
偶然この父母に生まれたのも偶然ときどき
見知らぬ星の子になって
不思議にその男女を見つめるのだったそう
左側は常に暗い
宇宙と直接?がっているかのようだった


『イソップの思うツボ 』──和製タランティーノ、上田慎一郎(★★★★★)

『イソップの思うツボ』( 上田慎一郎 中泉裕矢 浅沼直也監督、2019)
年)上田慎一郎 中泉裕矢 浅沼直也

 私はかねがね、日本映画が世界レベルで勝負をかけるには、ハリウッドのまねは不可能、異国シュミを売るのは古すぎ、素人まるだしシュールな映画はお手軽すぎ、で、結局、日本的な現実の細部をどこまでリアルに描くかに、ひとつの道があるのではないかと思っている。しかも、低予算がまるわかりなのもおそれずに。低予算ということでいえば、ちょっと前に観たヨーロッパ映画は、俳優がひとりで舞台のように演じる、ワンカットの映画だったが、ああいうのは、誰でも思いつく。
 しかし上田慎一郎監督は、『カメラを止めるな』のような答えを出してきたのだが、第二弾である本作によって、氏のスタイルがより明確になった。それは、

1,有名俳優を使わないことによって、俳優の肉体も含めた「ステレオタイプ」演技を排除し、展開を見えなくさせる。
2,「実は映画だった」で、メタを意識させ、かつさらに、「でも現実だった」でそれを裏返す手法で劇的なものを取り入れる。
3,俳優陣は顔が知られてないだけで、演技力は十分にある、とくに主役の亀田美羽の、ある目的のために「演技している」キャラクターと、地が百八十度違うが、そのどちらも説得力をもって演じているその演技力は大したものである。
4,映画がかなり進行してからタイトルが出るのも、毎度意表を突くが、その展開で使われているノリのいい音楽は、すぐれた洋画を思わせるほどセンスがいい。
5,上田監督のテーマに、「映画」があり、毎度、筆書きされたタイトル(今回は「亀田家の復讐」)の脚本が結構「演技」をし、クサくかつ生々しく、これだけでも十分に笑いをとっている。
6,今回、監督は、三人であるが、上田監督以下の監督は、『カメラを止めるな』の助監督、スチール監督で、これは、違う人間がやることによって、異質な部分ができて、一本調子の「物語」を避けることができる
 ……てなてな感じで、今回も、「あるあるこんな人」が多々出てくるが、その表現が細かいので、批評になり得ている。
 こういう作品を、素人とかチャチとか信じ込んでしまう人は、まー、アタマが紋切り型になってしまっているんですね。

【詩】「不可能」

「不可能」

ヴァレリーの十行詩 ababccdeed と脚韻を踏む『蛇の粗描』 ?bauche d'un serpent を日本語に訳すはいいが同様な韻を踏むことは不可能であるこの蛇は vip?re マムシである
十行詩とは十行の節が一連を形成している詩で、ababccdeed と韻を踏むヴァレリーの『蛇の粗描』は三十二連から成っている

*美しき蛇、青の中にひっくり返って、
ぼくは口笛を吹く、繊細に、
神の栄光に贈る
わが悲しみの喝采
ぼくには十分だ音楽の中
苦い果実の巨大な希望が
泥の息子たちを動転させるだけで
__きみを巨人にするこの乾き、
存在が奇妙を興奮させるまで
全能の無よ!*

『蛇の粗描』は上記のように結ばれる
空間はつかみどころがなく
三次元でも四次元でもない
悲しみの処遇として不可能に身をゆだね
わが遠州の蛇を懐かしむ


****

*印は、Paul Val?ry "?bauche d'un serpent" 最終連拙訳。



【詩】「詩法」

「詩法」

ヴァレリーのいない遠州では蛇も
粗描されない詩法の数に戸惑うばかりだ
だがそれは当然だった記憶のために詩が
必要だった韻文は筆記と同等で
残る
鏡の中に見るは遠州の祖母の眼
オオサという食料品店の娘だった
そうな山奥の食料品店すなわち
いいとこの出その娘が籠を背負って
茶摘みユキノシタにも天使は棲んでなくて
けれどトルゥバドゥール探す者は
訪ねて来る牛も寝ている早朝
ロシアの村にどこか
似てますねアマガエルが耳打ちするのだった


『ロケットマン 』──タロン・エガートンの軽さが作品を脱物語化(★★★★★)

ロケットマン』(デクスター・フレッチャー、2019年、原題『ROCKETMAN』)

 すでに若手俳優界も様変わりして、容姿がすぐれた人間などどこにでも落ちているので、まず演技力がなければオハナシにならない。かてて加えて、オリジナリティー、現代の軽さも身につけていなければならない。そういう意味で、『キングスメン』のタロン・エガートン、『ベイビー・ドライバー』のアンセル・エルゴート、『スパイダーマン』のトム・ホランドには注目していたが、とくに、『キングスメン』の、ストリートキッズからエージェントに拾われ、りっぱなエージェントに成長していく、タロン・エガートンにとくに注目していた。その彼が、まったくイメージの違うエルトン・ジョンを演じるとあれば、なにがなんでも駆けつけないわけにはいかない。そういえば、『キングスメン』で、エルトン・ジョンその人は、カメオ出演していたな。そういうつながりもあるのだろう。
 『キングスメン』では、完全なる無名俳優の大抜擢であったが、彼の軽さが、「スパイ物」を新しいものにしていた。本作も、エルトン・ジョン自身には、風貌や持ち味からは似ても似つかないエガートンであるが、無理に似させようとはせず、彼の解釈したエルトン・ジョンを、彼自身と重ねながら、ほんとうに楽しんで演じていて、この俳優の底知れぬ可能性を感じた。
 映画じたいも度肝を抜いて、苦い半生ものではあるものの、ドラマのなかに没入したものではなく、なんと、いちばん暗いシーンで突然歌い出す、ミュージカルであった(笑)! 厳格な父親さえが歌い出せば、映画は脱物語化され、たんなる大スターの伝記ではなく、そこに批評が入り込む。なんせ、内気な少年が、ど派手なロックスターになりました、で終わりではなく、その大スターが、アルコール依存症のグループセラピーに出て、そこで自らの生い立ちを語る設定になっており、そこには、「上から目線」のようなものは、あらかじめ排除されている。
 エルトン・ジョン自身も制作者に名を連ねているのだから、「監修」の目はあったと思うのだが、それを、タロンに自由に演じさえ、歌わせているところにも、器量の広さを感じた。芸術がなんであるか考えさせる、知的ですがすがしい作品である。

【詩】「はげ鷹」

「はげ鷹」

吉田健一はたったひとつの地名でも
詩になると言った
私にとって遠州というのが詩である
それはその名のとおり遠く
州であるその谷の砂地には
いつでもはげ鷹の死骸があって
陽に照りつけられて匂う
それは私にとって父性であり
父性とは最初に子に知を与えるものである
ゆえに父は私に人生最初の歌を教えた
まさに朝日に向かって歌いながら
「朝はどこから来るかしら?
 光の国から来るかしら?
 それは明るい家庭から
 朝は来る来る朝は来る」
ひとり川底を歩くとき
やがては父になるその少年と
その少年を送る私が重なる時
時間は金色に輝き
はげ鷹の死を祝福する

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いろいろ開設してますが、こちら↓におまとめ……といっても、まだ「あって」ますが。ブログ界ロングテール、一強、そういう時代なのかも。